スルガ銀行のなりたち 2011年2月23日

かるの

2012年05月29日 08:17

講師:スルガ銀行取締役 内山義郎氏


※以下は聞き書きであり、全てを網羅している訳でなく、聞き間違いなどもある場合があります。ご了承ください。

 黒船来航は創業の原点。
 スルガ銀行創業者である岡野喜太郎の父・弥平太は下田奉行所に務めに出た。どうしても黒船が見たかったという。

 明治17年、青野が暴風によって塩害となって飢饉になり、餓死者が出る事態となった。当時、韮山師範学校に学んでいた喜太郎は退学して郷里へ帰り、復興に尽力する。
 翌年は豊作となったが、飢饉に備えるために貯蓄組合を設立する事にする。次第にこの運動は拡がり、「根方銀行」となる。資本金1万円は当時の銀行の中で最も少ないものであった。明治45年には通横町に本店を移し、「駿河銀行」となる。

 駿東実業銀行の行章はカクジツという意味。
 現在の行章は富士山の中に波で、取引先・株主・行員により荒波を越える、という意味である。

 関東大震災の時、金融機関には支払猶予令が出た。これは非常時ゆえ顧客の預金払い出しを断れるというものであった。
 しかし、静岡県は関東地方より先に解除となったため、資金が足りなくなった事があった。スルガ銀行は銀行としての預金を東京の古河銀行に預けていたからで、古河銀行からは引き出せない事になったからである。
 岡野は日銀に掛け合い日銀名古屋支店から現金を引き出し、札束の入ったトランクを馬にくくりつけて、そのまま神奈川県まで向かい、現金の引き出しを受け付けた。すると、引き出しではなく預け入れを申し込む人が多かった。
 スルガ銀行では前々から通帳や帳簿、顧客名簿を二部作っておき、別々の場所に保管する事により焼失を免れていたのであった。その時の信用で、今も神奈川県の自治体の指定金融機関となっている所が多い。
 岡野は震災で妻も失ったが、それでも陣頭指揮を執り続けた。

 「差」より「違い」の創造。
 「私の一生は青野の村人、あるいは駿河伊豆相模の事業家にあたかも下駄の鼻緒をすげ変えてやってこられたものだとしみじみ思うのである。」--岡野喜太郎
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