ホントに歩く東海道 小田原~湯本編 ⑤

かるの

2015年03月10日 08:03

先回の続き…


 板橋見付交差点の東側にある大久寺

 大久寺は小田原藩主・大久保忠世を開基とする寺で、大久保家の菩提寺。
 大久保家の当主は初期には大久寺に葬られたが、1614年(慶長19年)に二代忠隣が改易。これに伴い寺も衰退し、大久保家は江戸中期以降は主として江戸青山の教学院に葬られていた。
 

立派な飾り瓦。「大」の字がある。


瓦を利用


寺の側に走る鉄道の線路の橋脚


初代・忠世の墓石は法華五輪塔の代表的なもので損傷もなく立派なものである。2代忠隣など7基の墓石が並んでいます。

境内にある「金津正利先生欽斯之碑」

この金津正利という人名を検索したが全く出ない。明治四十二年八月十六日の建碑で、勲三等の西岡●明(●はシンニュウに命)によるものだが、コチラの人も出てこない。どんな人でしょうか。

貞享三年(1686)、幕府老中の忠朝が藩主となり、再び元の地へ大久寺を再建したという。

道の反対側の居神神社

 居神神社は伊勢宗瑞と戦った三浦義意を祀る神社。永正年間の創建と伝えられるが、詳しい時期は不明である。





 伝説によると、1516年(永正13年)に新井城で自刃した三浦義意の首が小田原に飛来し、井神の森の古松にかぶりつき、3年間も通行人を睨みつけていた。
 城下の僧が代わる代わる供養しても成仏しなかったが、久野総世寺四世の忠室存孝が松の下で読経をし「うつつとも夢とも知らぬひとねむり、浮世の隙を曙の空」と詠むと、首はたちまち白骨化して地に落ちた。
 すると、時空より「われ今より当所の守り神にならん」と成仏したのだという。その後、社を建てたのが居神神社である。
 そのため、毎年、例祭のあとに三浦義意の墓である新井城へ参拝する習慣がある。

社殿の彫刻は天狗?



古碑群





鎌倉時代末の古碑群。文保・元亨の板碑刻文から念仏供養のために建てられたものであることが判明している。

続く…。

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