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2015年09月15日
最前線・御台場散策 ②徳川家霊廟
大殿の脇に廻り込むと在る、この門は鋳抜門で、門の向こうは徳川家霊廟である。
徳川将軍15代のうち、秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂、将軍のほか、崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮(十四代家茂公夫人)ら五人の正室、家光の側室・桂昌院(綱吉の実母)はじめ五人の側室、及び家光の三男・綱重ほか歴代将軍の子女多数も埋葬されている。
第二次世界大戦前には台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(秀忠夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が旧国宝に指定されていたが、昭和20年に2度の空襲があり3月10日に北廟68棟が被災、続く5月25日に南廟28棟が被災し、その建造物群のほとんどを焼失した。
僅かに残った建物もその指定を解除され、焼失した御霊屋郡は暫くのあいだ荒廃に任されていたが、これらの霊廟に祀られていた遺体を昭和33年に調査発掘し、その後桐ヶ谷斎場にて火葬され、現在地に改葬された。鋳抜門は文昭院霊廟奥院中門であった門で、数少ない生き残りである。
門は青銅製で、左右の扉に五個づつの葵紋。両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている。
日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構である。
お地蔵さんがズラリ
最強だそうです
大殿を東側から望む
ここに阿波丸殉難碑を発見
太平洋戦争中の昭和20年4月1日、シンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船「阿波丸」が、アメリカ海軍の潜水艦により撃沈され、2000人以上が死亡した阿波丸事件。
「阿波丸」は日米間の協定で安全航行を保障されていたはずであり、犠牲者の人数において、タイタニックを上回る悲劇となった。
1979年4月、中国領海内の福建省沖合約20kmの地点で「阿波丸」の残骸が発見された。中国政府は潜水調査を実施し、回収された遺骨158柱や遺品は日本側に引き渡され、同年7月、遺族ら800人が参列して増上寺で法要が営まれた。
ここで増上寺を出て、来た道を戻る。
増上寺前に在るこの建物。レストランの様だ。
入ってみたかったが、閉まっていた。クレッセントとある。
1947年に古美術商店として営業し、1957年の増改築を機にレストランとなった。増改築により1968年にビクトリア風の建築様式を採り入れた格調高い洋館の高級フレンチレストランとして、ミシュラン2009の二つ星レストラン。
浅岡飯炊きの井
ここには仙台藩伊達家の増上寺参詣の折に使われていた支度所の跡で井戸が残っている。
1660年の仙台藩のお家騒動・伊達騒動の際、後に藩主になる事になる亀千代(後の伊達綱村)を毒殺の危険から救うため、乳母・浅岡がこの井戸の水で調理したという。
ここで昼食
蕎麦の更級布屋。寛政三年の創業という老舗。老舗でありながらそれほど高くない価格です。
続く…
Posted by かるの at 08:17│Comments(0)
│店主