no">
2012年07月08日
「真野文二と沼津兵学校」平成22年3月27日
講師:鈴木一義氏(国立科学博物館 主任研究員)樋口雄彦氏(国立歴史民俗博物館 総合研究大学院大学 准教授)
※以下は聞き書きであり、全てを網羅している訳でなく、聞き間違いなどもある場合があります。ご了承ください。
西洋では神が造った世界をどう理解するかが科学であった。日本ではそれが確立されていなかった。
日本では実学としての技術があり、既に農学の本として流通していた。それらはオランダを通じて欧州へと伝えられた。
中国はあくまでも記録のみであり、構造を理解してまでのものは少ない。
伊能図が素晴らしいのは、フランスで求められた地球の大きさを日本地図を作る事で検証した事である。更にそれは一部のエリートだけではなく、多くの人によって行った事でありながら精度が落ちていない事である。
田中久重らは見よう見真似で蒸気船を造った。20馬力程度のエンジンであったが、シーリングが出来ていなかったので、長崎に来ていたカッテンディーケという技師に見せ、彼が修理してみると設計通りの出力となった。これにはカッテンディーケも驚愕した。
江戸開城の前、抵抗すべしという声が多かった。その際に急進派を抑えるために真野肇は動いていた(江原素六なども)。
明治史料館には江原素六、父・子が死んだ時の弔辞が残っているが、それには真野のものがある。
徳川家駿府移封により、真野肇は子・文二と共に兵学校で学ぶ事になるが、将校よりも小学校の教師になる事を選ぶ。兵学校が閉鎖された後の集成舎では教師となる。明治7年には東京へ。陸軍の中の数学教官、その後、海軍に。
東京農大はその前身は育英校といい、静岡に移った幕臣子弟の教育機関であり、校長は榎本武揚であった。その部下に真野の名前がある。
日本で最初に作られた数学の学会には真野の名前がある。
真野家の祖先は織田信雄に仕え、その後、徳川家に旗本として仕えた。
真野文二はキリスト教に入信したが、父である真野肇は大きく嫌っていた。葬儀の方法を巡って対立したという。
昭和14年、沼津兵学校70周年を祝して真野文二が招かれ、講演を行った。
Posted by かるの at 08:17│Comments(0)
│受講日記