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かるの
各地で歴史講座を展開中。歴史を知る事で、人生や地域が豊かになる事を目指して。
フリーマガジン「道の駅」にも寄稿中。
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2015年03月05日

ホントに歩く東海道 小田原~湯本編 ③



続いて正恩寺


正恩寺は初めは尾張国海東郡富田庄(現・名古屋市中川区)に創建され、後に三河国額田郡土呂に移された。当時の三河国二股城主だった大久保氏が小田原城主となった後、文禄2年(1593)に当地に移している。

このため、正恩寺は「尾三相州転遷の道場」と呼ばれています。


境内はそれほど広くないが、整えられた庭が気持ち良い。



 この門は木造・入母屋造瓦葺の楼門で、小田原市内に残る数少ない楼門建築の遺構として貴重なことから平成4年に小田原市指定文化財に指定されています。
 上層には、寛延3年(1750)に鋳造された梵鐘(直径2尺3寸、高さ3.5尺)があったが、昭和18年に供出されたままである。

かつての洗濯屋さんでしょうか


徳常院

近代建築の寺であるが、この寺には高さ3メートル近くの大仏がある。

大仏は江戸増上寺塔頭にいた心誉常念が、正徳3年(1713年)に造立し、芦ノ湖畔の賽の河原にあった。
しかし、明治の廃仏毀釈でこの地蔵尊は、古物商の手によって東京に売られてしまった。運送中に小田原から船に積もうとしたが、全く動かすことが出来なくなってしまい、それを聞いた小田原の有志が金を出し合って買い取り、ここ徳常院に建立したという経緯がある。

境内の一隅には石仏がまとまって置かれていました。


ここで「鈴廣」を掲げる建物が

蒲鉾で知られる鈴廣。元は天明年間に、この「船頭横丁」にあった魚屋であった。その傍ら蒲鉾の製造も行っており、小田原・箱根の宿には蒲鉾がおかずとして供されていた。
時代は明治となり、六代目鈴木廣吉の時に蒲鉾製造を本業として屋号を「鈴廣」と改めた。
風祭に本社を移し、この地での営業はしていないが、看板も昔のままで建物が残っています。

すぐ近くには鱗吉(うろこき)

コチラも鈴廣と並ぶ天明年間からの老舗である。

昼食はコチラの小伊勢屋さんにて。


続く…。
  


Posted by かるの at 08:02Comments(0)店主

2015年03月04日

3月3日 Lot.n講演 「会津藩 守り続けた真の侍」 参考文献

 3月3日、沼津市のLot.nにて「会津藩 守り続けた真の侍」についてお話させて頂きました。

 お越し下さった皆さん、ありがとうございました。
 
 講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
 
 書名/著者
 「シリーズ藩物語 会津藩/野口信一」

 「カメラが撮らえた会津戊辰戦争/新人物往来社」

 「カメラが撮らえた新島八重 山本覚馬 新島襄/新人物往来社 」
 
 「会津藩 斗南へ/星亮一」

 「名君の碑 保科正之の生涯 /中村彰彦」
 

 
 ご参考にしてください。

※次回のLot.nでの講座は4月7日18時半から 「鳥島漂流 沖の太夫たち」と題し、江戸中期に起きた漂流事件。冬の嵐に投げ出された新居と伊豆の船乗りたちの鳥島での20年に亘る漂流生活についてお話しします。  


Posted by かるの at 08:13Comments(0)

2015年03月03日

本日講演 「会津藩 守り続けた真の侍」 沼津市 Lot.nにて

 本日18時半から沼津市のLot.nにて行います。


 内容は「会津藩 守り続けた真の侍」です。


(最後の会津藩主・松平容保)


 江戸時代、会津藩は徳川御三家に次ぐ家格とされ、藩祖・保科正之から蝦夷地警護、幕末の江戸湾警護、京都守護職など、御三家以上に幕府に忠義を果たした。
 武士の中の武士と言える会津藩の歴史と、その精神を生んだ背景についてお話しします。

 「会津藩・江戸時代・蝦夷地警護・海防・教育史・武士道」に関心がある方にオススメ。


 会費:1000円(ドリンク付き)

 時間:18時半から

 開催場所はコチラ・沼津市上土町10 (それまでの店舗の道向かいです

)  
 ※移転先の営業開始は二月初旬からです

 ※駐車場がありません。公共交通機関か近隣の駐車場をお使い下さい。

 申し込みはオーナーメール、もしくはLot.nさんへ直接お願いします。
 携帯電話055-919-1060

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


Posted by かるの at 08:16Comments(0)世間士として

2015年03月02日

ホントに歩く東海道 小田原~湯本編 ②



城跡を出て国道1号線沿いに歩くと在る城の様な建物

小田原外郎(ういろう)の本店である。

 外郎(ういろう)は菓子のういろうを思いがちであるが、元々は透頂香(トウチンコウ)という薬である。
 これは中国・元王朝の滅亡時に日本に亡命した現地人が、作っていた秘薬を売る京都の外郎氏が、時の小田原城主となった伊勢宗瑞(北条早雲)から乞われ、分家が小田原で店を出したのが始まりという。
 薬を処方した際、その口直しとして甘味のある菓子としてのういろうが作られた。
 小田原外郎家の当主は代々、宇野藤右衛門を名乗った。後北条家滅亡後は、豊臣家、江戸幕府においても保護がなされ、苗字帯刀が許された。なお、京都外郎家は江戸時代の元禄年間頃に本家が衰亡し断絶。その後は、小田原外郎家が独占的に外郎薬を製造するようになった。

 店内にあるういろう博物館は、明治十八年築の蔵を利用し、ういろうに関しての様々な展示がある。
 1階は、外郎家に伝わる品々の展示。薬を製造する器具や看板などが歴史を感じさせる。
 そして、2階は広い空間が開けていて、京都の祇園祭りの山車、「蟷螂山」についての展示がされ、現在になって、小田原の外郎家と祇園祭の交流が再開されたとのことでした。
 関東大震災では多くの建物が倒壊したが、この土蔵だけは免れたとのことです。


 早口言葉の「外郎売」は、曾我五郎時致がういろう売りに身をやつして薬の効能を言い立てるもので、これは二代目・市川團十郎が薬の効能が喉に良い事から世話になったお礼として創作したものである。
 喉に良い、という事で私も一つここでしか購入できない薬を購入。通信販売は一切不可で、ここでも一人二箱までという制限がある。用いている生薬の入手が難しくなっているそうである。
 ういろうを入れる印籠もあった。


 この店の建物、小田原城よりも城っぽい。てっきりバブルの頃に調子乗って作った建物、と思ってしまったが、江戸時代からこの様式で、店内に展示してあった古写真によると、関東大震災で崩壊する前の外郎本店は八棟造りと呼ばれる千鳥破風が一つの屋根に八つ乗った構造の建物だった。

 ういろうを出て歩いていると、あった発掘現場

 小田原市は個人宅でも発掘調査を行うことによって、小田原の城下町時代の街割りの調査をしている。

 海側に向かう。西海子(さいかち)小路という道

 江戸時代は中級武士の屋敷があった所だという。何となく、景色が整っているのもその事からか。

 蓮昌寺

 北条氏直の家臣であった二階堂資朝夫妻により開創された。

 滄浪閣跡

 伊藤博文は、初代内閣総理大臣、初代枢密院議長等の要職を重ね、大日本帝国憲法の草案が一段落した明治22年に、当地に別邸を建設し、その翌年完成、「滄浪閣」と命名された。
 しかし同年、伊藤は貴族院議長に就任、明治25年には第2次伊藤内閣、その間には日清戦争もあるなど、慌しい状況で、伊藤がこの滄浪閣に来ている時には、政府の要人たちが次々と東京・小田原間を往来し、日清戦争に関する重要問題も滄浪閣で処理した事がある程であった。

 明治26年に、伊藤は民法改正に着手し、起草委員に選ばれた穂積陳重、富井雅章、梅謙次郎の3名の法学博士は、明治27年の5月から秋まで滄浪閣の一室に閉じこもり、民法典原案の立案執筆を行った。その事からこの地は「民法発祥の地」とされることになった。
 しかし、伊藤は民法施行を待たずに、明治30年、滄浪閣の名と共に大磯町へ移っていった。

 建物は「養生館」という旅館として再開されることになったが、明治35年に小田原町沿岸を襲った小田原大海嘯により大破し、残った建物も関東大震災で壊滅した。

続く…
  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)店主

2015年03月01日

富山県朝日町・脇子八幡宮

  ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
 神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
 ここでは私が尋ねた神社を紹介します。




 脇子八幡宮は富山県下新川郡朝日町横尾966に座する神社で、旧社格は郷社である。
 (昭和21年に県社昇格が内定していたが終戦となった。その後、正式には県社となっていないのかもしれないが、『富山県神社誌』には旧県社と記されている。)



 祭神は応神天皇、豊城入彦命、事代主神、北陸宮
 


 例大祭は7月1日。



 弁慶の足跡

 参道の階段左脇に足跡の形の窪みのある石。案内では弁慶が黒部山を一跨ぎにして、この石を踏みつけたとある。



 社伝によると、大宝二年(702)、高向朝臣大足が当国へ下向し、越中・越後の国境鎮護の神として、城山(脇子山、八幡山)に鎮祭した古社である。

 城山は現在、あさひ城山公園として整備され山上に宮崎城跡があるが、宮崎城は木曽義仲に属する宮崎氏の居城。
 治承四年(1180)、以仁王による平家追討の令旨によって挙兵した木曽義仲は、寿永二年(1183)、越中侵攻の際に、城主・宮崎長康と共に、以仁王の死後出家して越前国に逃れていた以仁王の第一王子・北陸宮をこの城に迎え入れて還俗と同時に元服させ、御所を作って越中侵攻の足がかりとし、当社にて平家打倒の戦勝祈願が行なわれた。当時義仲が献進したとされる太刀が、米正作の扇額4面・鏡1面とともに保管されている。
 北陸宮は京で没したらしいが、元和二年より当地の石黒家が邸内に祀っていたが文政十年に合祀された。なお、昭和になって分骨された墳墓が城山山上にある。
 一説には宮崎村の沖の島に鎮座していたが義仲が北陸王を城に迎えるにあたり、城中に遷座したとも。



 天正の頃、前田氏が境関所が設けられて宮崎城は廃城となって、当社は山麓の泊に遷座し、泊の氏神として崇敬され、前田藩は辛酉の年ごとに皇統の長久祈願のため金門鳥敏の祭を執行させ保護した。




今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。

より大きな地図で

Posted by かるの at 08:02Comments(0)神社探訪