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かるの
各地で歴史講座を展開中。歴史を知る事で、人生や地域が豊かになる事を目指して。
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2015年01月29日

1月28日講演 「会津藩 守り続けた真の侍」 参考文献

 1月28日、沼津市の高嶋酒造にて「会津藩 守り続けた真の侍」についてお話させて頂きました。

 お越し下さった皆さん、ありがとうございました。
 
 講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
 
 書名/著者
 「シリーズ藩物語 会津藩/野口信一」

 「カメラが撮らえた会津戊辰戦争/新人物往来社」

 「カメラが撮らえた新島八重 山本覚馬 新島襄/新人物往来社 」
 
 「会津藩 斗南へ/星亮一」

 「名君の碑 保科正之の生涯 /中村彰彦」
 

 
 ご参考にしてください。

※次回の高嶋酒造での講座は2月25日18時半から 「人の記憶 地の記憶 火山伝承を読む」と題し、富士山の火山活動による成り立ちから、人々が残した文学作品に現れる火山としての富士山についてお話しします。  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)世間士として

2015年01月28日

本日講演 「会津藩 守り続けた真の侍」 沼津市 高嶋酒造にて

 本日18時半より講演致します。
 内容は「会津藩 守り続けた真の侍」です。


(最後の会津藩主・松平容保)


 江戸時代、会津藩は徳川御三家に次ぐ家格とされ、藩祖・保科正之から蝦夷地警護、幕末の江戸湾警護、京都守護職など、御三家以上に幕府に忠義を果たした。
 武士の中の武士と言える会津藩の歴史と、その精神を生んだ背景についてお話しします。

 「会津藩・江戸時代・蝦夷地警護・海防・教育史・武士道」に関心がある方にオススメ。

 参加費:700円。

 時間:18時30分から

 開催場所はコチラ・沼津市原の高嶋酒造にて


 ※駐車場がありません。公共交通機関での来場をお願いします。(JR原駅から徒歩5分)

 ※申し込みは高嶋酒造へメールでお願いします。「info★hakuinmasamune.com」(★を@に換えて下さい。)
 

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


Posted by かるの at 08:02Comments(0)世間士として

2015年01月27日

ちゃらぽこ城跡探索「戦国城郭 河越城跡と小江戸川越散策」 ①

散歩かふぇ・ちゃらぽこさんの散歩会「戦国城郭 河越城跡と小江戸川越散策」に参加してきました。
川越に行く、という話をしても、蔵の街並みは知ってても、城があった事を知らない人が多いのが残念な所。
戦国大名では北条氏が好きな者として、北条氏が関東の覇権を握る契機になった「河越夜戦」の舞台として、自分の講座でも取り上げていた事もあり、前々から行きたいと思ってました。


ちゃらぽこ散歩会でも大所帯の26名が参加。

自分が一番、遠方かなと思いましたが、更に遠い人も。川越の関心の高さが伺えます。

駅から城に向かう途中にあったクランク状の曲がり角。

これも城下町時代の名残という。

喜多院の周りはこのように濠に囲まれている。

一目でこれは城じゃないかと。現在の川越城は太田道灌が1457年に築いたが、それ以前に仙波城という城があり、その名残ではないか、ということである。川越城が出来た後も、出城として機能していたとの事。

喜多院に入る手前にあった「泥棒橋」

喜多院は神領として、川越藩の奉行が手を出せない事から泥棒が逃げ込む事があった。すると寺の人に捕まり、悪い事が起こると諭され、喜多院にお参りをし、罪を深く悔い改め、善人になった。それ以来、この橋を「泥棒橋」と呼ぶようになったという。

喜多院

 喜多院は830年、慈覚大師が無量寿寺を創建し、その後1588年、天海により再興された。1638年、山門を残して焼失してしまったが、江戸城内にあった書院を移築。現在、徳川家光誕生の間、春日の局控の間が残り、江戸城の建築遺構として貴重な遺構となっている。
 また、徳川家康が没後、久能山に葬られた後に日光に改葬されるが、徳川家康の遺骸が運ばれる際、喜多院において法会が行われた。その事から、境内の仙波東照宮は日本三大東照宮(日光、久能山、川越)に数えられる。

多宝塔

 寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立された。
 江戸時代の大工棟梁「平内政信(へいのうち まさのぶ)」が建造。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物。
 総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのっている。江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れている。


慈眼堂

国重要文化財。1645(正保2)年築。慈眼大師天海を祀る堂として、徳川家光の命により建てられた。
堂内には「木造天海僧正坐像」安置されているが普段は非公開。

慈眼堂裏にある喜多院歴代住職墓所


慈眼堂は周りの境内よりやや高まりがあるが、元は前方後円墳であったという。
墓所、という事もあり、この高まりに夜間の立ち入りを禁じる、という一文があった。

山門 

国重要文化財。1632(寛永9)年築。天海が造らせた喜多院の中で最も古い建築物。
左側に附属しているのは番所で、こちらは県指定有形要文化財。
江戸中期から江戸末期の建築だと考えられています。

鐘楼門

国重要文化財。建立年代は不詳。1638(寛永15)年の川越大火後に再建されたという記録が無いことから、それ以前の建築である可能性がある2階建ての門。

境内にあった開運だんごを食べたら、みたらしでは無くて醤油味そのままでした。

では、喜多院から先へ進む。

続く…。


  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)店主

2015年01月25日

1月24日 講演 「平安ならざる関東 武家の世を開いたつわものたち」 参考文献

1月24日、沼津市のteshioにて「平安ならざる関東 武家の世を開いたつわものたち」についてお話させて頂きました。

 お越し下さった皆さん、ありがとうございました。
 
 講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
 
 書名/著者
 「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権/川合康 」

 「源氏と坂東武士/野口実」

 「『東北の歴史』上巻第4版/豊田武」
 
 「古代東国社会と交通/佐々木虔一」
 

 ご参考にしてください。

※次回のteshioでの講座は2月21日14時からです。
  


Posted by かるの at 08:16Comments(0)世間士として

2015年01月21日

神の集まる島 神津島探訪 ⑫



部屋に荷物は置かせて貰ったが、夜は所々で見掛けた「夜光虫鑑賞クルーズ」の貼り紙を見て予約していたので集合場所に向かう。

ライトアップされた水配神話の像


時間と共に参加者が集まり始め、ライフジャケットを着用して船に乗り込む。


船が港から出て10分ほどの沖合に来ると船の灯りを消し、その状態で船を旋回させると、水の中に蛍光色の輝きが無数に流れる。船に乗船している一同、感嘆の声を上げた。

月明かりも明々


海面をじっと見つめていると、何か光の中を漂っているかのような不思議な気分になってくる。
バケツで海水を汲んで、手で掻き回すると手の周りが輝く。
闇の中であったが、島の方に目を転じると、周りの洋々たる真っ暗な海の中で、島の灯りもまた人の営みが垣間見えて、妙に感動してしまった。


一時間ほどで船は港に戻り解散。


港近くに在るダイバーショップが夜のみ営業しているカフェに入り食事。

明日葉チャーハン

観光客だろうか、結構人が入っている。目の前の浜では花火を上げている人が居て、歓声が聞こえる。何となく、南の島に来た様なイメージの店だが、風は涼しく夏の終わりを感じさせる。この店も夏以外はやっていないのだから、シーズンオフの島の姿はどうなのだろうかと気になる所である。
明日葉入りのチャーハンを食べて宿に戻った。

宿に戻って風呂に入ろうとしたが、風呂は個人宅の風呂じゃないかと思う程の大きさで、しかもシャワーはお湯が出ない。登山する荷物以外はテントに置いて来てしまったので、身支度をするものが何もない。でも宿ならばあるだろうと思っていたのだが、アメニティとしてのタオルや浴衣、歯ブラシも言わなければ出してくれなかった。
う~ん、何の為に宿を取ったのだろうかと考えてしまった。これならテントに戻って温泉入れば良かった。山行で疲れていたのもあって、酒が入るとすぐ眠ってしまった。

朝起きて朝食時間になると、泊まっていた人が一堂に会する事になるが、ほぼ全部屋に人が居た様だ。
朝食の大広間には魚拓が色々と貼ってあったのだが、その中に夜光虫ツアーをやっていた船の名前があった。宿の人に聞いてみると娘の嫁ぎ先だという。魚もそこから入れているという。
そう言えば、宿の名前が漁船の名前みたいな所が多いなと思ってたが、漁業の傍らの民宿業である所が多いみたいで、魚介料理が好きな人なら堪らないのだろうなと。宿に対して飲食店が格段に少ないのもこの辺りなのかもしれない。

朝食を済ませて身支度を整えると、宿の人にキャンプ場まで送って頂いた。帰りの船の時間までにテントを撤収しなければならない。テントは無事で特に物が無くなっているという事も無かった。
しかし、ここで折悪く雨がパラついて来た。テントを片付けるには完全に乾かしたいのに。
幸い大きめのあずまやがあるので、そこで雨を避けつつ片付け作業。風も強くなってきて、乾かしているテントが煽られるなどもあったが、風で乾いたというのもあり、割と早めに片付けに成功。一息つくとバスの時間なのでバスに乗って港に向かう。

港の待合室は非常に込み合っている。

ホワイトビーチきっぷはこの日までの期限なので、この日に帰る人が多いのであろう。

改めて観光案内所で土産になる物はと見ていると、「神津島神々降臨伝説」というDVDを発見。島のPR用として、神津島の神話をフルCGで制作したという。
ややアヤしげな雰囲気もあるが、ここでなければ売ってないだろうとも思い購入。知人に「神津島どうだった?」と聞かれた時に渡してみるのにも使えるかもしれないかなと。

出航時間が近付き、乗船する。

乗り込む前に改めて天上山を望むと、山頂部は雲の中。

不入ヶ沢で神々が集まっているのだろうか。船の中はほぼ満席。
ジェットフォイル特有のエンジン音と共に船は岸を離れ島の緑が流れるようになると、また訪れたい、との名残惜しい気持ちを引き剥がすように、船は一気に加速するのであった。
  


Posted by かるの at 08:18Comments(0)店主

2015年01月20日

1月24日講演 「平安ならざる東国 武士の世を開いたつわものたち」 沼津市 teshioにて

 ※当初、1月25日に予定していた講座ですが、前日の24日に変更となりました。

 内容は「平安ならざる東国 兵(つわもの)、武士の世を開く」です。



平将門像


 平安時代。その呼び方とは裏腹に、東国では常に戦乱に包まれていた。
 後に幕府を開く事になる源頼朝を支えたのは、東国に秩序を求めた武士団であった。
 平安時代に兵(つわもの)と呼ばれ、幕府を開いた後に鎌倉武士となり全国へと拡がっていく背景についてお話します。
 
 「武士・荘園制度・貴族社会・平安時代・鎌倉時代」に関心がある方にオススメ。


 会費:500円
 ※飲食店ですので1人1オーダーのご協力をお願い致します。

 時間:14時から

※お車でお越しの方は2人以上の相乗りで文化センターの駐車場をご利用頂くと、1時間無料になります。

 開催場所はコチラ・沼津市民文化センター内のカフェ・teshioにて  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)世間士として

2015年01月19日

1月18日 講演 「孤島のコスモポリタン ボニンアイランドから小笠原へ」 参考文献

1月18日、静岡市のシニアライフ支援センター・くればにて「孤島のコスモポリタン ボニンアイランドから小笠原へ」についてお話させて頂きました。

 お越し下さった皆さん、ありがとうございました。
 
 講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
 
 書名/著者
 「小笠原学ことはじめ/ダニエル・ロング 」

 「幕末の小笠原: 欧米の捕鯨船で栄えた緑の島/田中弘之 」

 「近代日本と小笠原諸島: 移動民の島々と帝国/石原俊」
 
 「硫黄島と小笠原をめぐる日米関係/ロバート・D・エルドリッヂ」
 

 ご参考にしてください。

※次回のくればでの講座は2月15日14時からです。
  


Posted by かるの at 08:16Comments(0)世間士として

2015年01月18日

本日講演 「孤島のコスモポリタン ボニンアイランドから小笠原へ」 静岡市 くればにて

 本日14時より静岡市のシニアライフ支援センター「くれば」にて講演致します。

  内容は「孤島のコスモポリタン ボニンアイランドから小笠原へ」です。


(小笠原開拓の中心に居たセーボリー一家)


 日本の領土でありながら、日本人では無い人々によって拓かれた島・小笠原。
 無人島(むにんしま)と呼ばれ、漂流民が漂着する日本の果てであった島が、太平洋の最後のフロンティアとして欧米各国の注目を集めた。その状態で日本は領土として主張するために如何に動いたのか。
 20を超える国と地域から集まった欧米系島民たちによって育まれた小笠原諸島の歴史と文化についてお話します。
 
 「明治時代・太平洋航路・近代史・領土問題・クレオール文化」に関心がある方にオススメ。

 会費:500円(+ワンオーダーをお願いします)。


 開催場所はコチラ・静岡市両替町2丁目3-6大原ビル1F シニアライフ支援センター「くれば」
 


 申し込みはコチラから。054(252)8018
 もしくはオーナーメールで直接お願いします。


 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました
  


Posted by かるの at 08:16Comments(0)世間士として

2015年01月17日

神の集まる島 神津島探訪 ⑪



ふと見上げると、先ほどまで居た天上山がもう遥か遠くに。

何度も何度も天上山を振り返る。
一つの山に白い砂漠や天然の池など見所が沢山あって、灌木や草原、大小さまざまな岩が連なり、また四季折々に咲く花や植物とともに、晴れた日には富士山まで見渡せる景観の素晴らしさ。本当に天上山という名がふさわしい山だなと思う。

神津沢の砂防ダム


来た時の道に戻る

こうして人里に戻ったのであるが、ここで問題が。
この日、神津島ではトライアスロン?な競技会が開かれていて、キャンプ場に通じるバスが運休しているというのだ。宿を予約してあるので、キャンプ場に戻ってテントを撤収してから宿に入ろうかと思っていたのだが。
歩いてキャンプ場まで戻れなくはないが、この疲れた足でキャンプ場に行って、撤収作業をし再び予約した宿がある所まで戻るのは難儀である。そこで、テントの撤収は翌朝に行う事にし、明日するはずだった郷土資料館の見学と土産の買物などをする事にする。

流人の墓地


神津島村郷土資料館は明治39年に建てられた旧役場の建物を保存し、隣に新しい建物を増設した資料館。

この施設の入館料もホワイトビーチきっぷに含まれている。
島の歴史と文化財を保存している訳だが、展示の中に明治32年の大火についての展示。水は豊富な神津とはいえ、水道が無い時代で集落が集中している中で起きた火事で、世帯数320の内、村役場を含む310世帯が焼失してしまった。旧役場の建物が出来たのが明治39年なので、この火事を受けてのものなのかもしれない。
展示は黒潮を通じて伝わる文化、という所に注目し、古代から現代までの神津島の歴史を知るための展示が見られたが、もう少し黒曜石の事や、流人や漂流などにも焦点を当てて欲しかった。

色々と土産を売っている所を見るのだが、どれも純然な神津島産の物が無い。いわゆる「販売者は地元だが、製造者が分からない」状態なのである。
一見するとそれらしい海産物の加工品なども、「神津島名物」というシールを貼ってあるだけ、というものが少なくない。あるのは焼酎の盛若とパッションフルーツくらいだろうか。売っている黒曜石も、妙に大きさが揃っていて、本当に神津産の物かは分からない。ここは残念な所であった。
あと、宿は夕食は無いので、食事をしようと思ったが飲食店が殆ど無いのも痛い。

買物の為に歩いていた時、だんだんと西に傾きつつある太陽が海を照らして美しく輝いた。

雲が多い日であったが、雲よりも低くなったので夕焼けが輝いたのだ。

この時、前浜に居た人々は、一様に夕焼けを見つめていた。

島に入ってから曇りがちな時間が多かったので、帰る前の日にこのような美しい輝きが見れて嬉しかった。



買物を済ませた後に予約した宿に入って荷物を置かせて頂く。


続く…。


  


Posted by かるの at 08:16Comments(0)店主

2015年01月16日

1月28日講演 「会津藩 守り続けた真の侍」 沼津市 高嶋酒造にて

 1月28日18時半より講演致します。
  内容は「会津藩 守り続けた真の侍」です。


(会津藩藩祖・保科正之)


 江戸時代、会津藩は徳川御三家に次ぐ家格とされ、藩祖・保科正之から蝦夷地警護、幕末の江戸湾警護、京都守護職など、御三家以上に幕府に忠義を果たした。
 武士の中の武士と言える会津藩の歴史と、その精神を生んだ背景についてお話しします。

 「会津藩・江戸時代・蝦夷地警護・海防・教育史・武士道」に関心がある方にオススメ。

 参加費:700円。

 時間:18時30分から

 開催場所はコチラ・沼津市原の高嶋酒造にて


 ※駐車場がありません。公共交通機関での来場をお願いします。(JR原駅から徒歩5分)

 ※申し込みは高嶋酒造へメールでお願いします。「info★hakuinmasamune.com」(★を@に換えて下さい。)
 

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


Posted by かるの at 08:03Comments(0)世間士として

2015年01月15日

藤枝市岡部町・桜屋

とある会合で和菓子が配られた。

 何気なしに眺めていたら、ローカルもローカルな名称と、絵柄に引き込まれた。

 まだまだ知られていない、ローカルなものがまだまだあるのではないか?
 これを見てから、和菓子屋巡りが始まったと言っていい。
 洋菓子と比べ、その土地の歴史や風土、産物と、和菓子にはローカルな情報が詰まっている。それでいて、現在の材料を使ったりと、常に革新している。

 私は街歩きをする際、和菓子屋をまず尋ねる。和菓子屋には老舗が多く、様々な歳時記に合わせた菓子を作るため、街の様子を見ている。そこには街の様々な情報が詰まっているからだ。


桜屋



玉露娘

内閣総理大臣賞の作品

茶の花饅頭


岡部の里栗


岡部の茶箱

最中が茶箱の形になっている

岡部散歩


玉露の里最中

  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)ご当地銘菓

2015年01月14日

神が集まる島 神津島探訪 ⑩



麓からも見えていた、天上山に刻まれた荒々しい崩壊の跡。

山の地図には神津沢とあり、目の前に切り立った崖を上から今見ている
。山頂付近に水が溜まって、それが崩落する事により、昔から村落が土砂災害にみまわれていたが、人工的に山を崩した跡である。
大正15年から行われた昭和46年にかけての治山工事により水が溜まらないようにし、完成した当時として国内最大級の砂防ダムのおかげで、土砂災害がなくなったという。
山が痛々しいようにも思えるが、 コンクリートで山の斜面を固めずに、ほぼ天上山の山頂部に近いこの場所に、ほぼ全ての資材を人力で搬入するという人の力には敬服する。
この時、やや雲が晴れて、その荒々しい崩落の先にある港を望めた

先程の神津沢の崖は天上山の火口縁でもある。反対側の窪みは、伊豆諸島の神々が集まって、水配りの会議をしたという不入ヶ沢(はいらないがさわ)である。

伊豆諸島が出来た後、神津島にて伊豆諸島の神々が島々の水を分ける為の会議を不入ヶ沢で行うと決まり会議を行い、次の朝に早い者順で水を分ける事になった。
朝になり、最初に着いたのが御蔵島の神様。続いて新島、八丈島、三宅島、大島の神様の順で到着して、最後に着いたのが利島の神様でしたが水が殆ど残っておらず、怒った利島の神様が不入ヶ沢の池で暴れて、その時に飛び散った水が神津島のあちこちに落ちた。その為、神津島にはあちこちで水が湧く様になった。
これが水分神話で、前浜海岸にあるモニュメントはこの神話を示している。そこから神の集う島=神集島=神津島となったと言われている。

不入ヶ沢は神聖な場所とされており、中に入ると出口が判らなくなって外に出られなくなるから絶対入ってはいけないとも言い伝えられて、人の立ち入りは禁止されている。


不入ヶ沢を見つつ、白島登山道の分岐になる。

ここからは前日に見た島の北部に在る神戸山を見下ろすポイントである。

ここから海を見下ろして下山に。振り返る度にそれまで歩いていた山頂部が離れていくのが惜しい気もする。


やがて木立の道に変わり、最後は急な石段に。












一時間ほどの下山で白島登山道の入口に出て車道に戻った。


続く…


  


Posted by かるの at 08:15Comments(0)店主

2015年01月12日

1月11日 「神の名の元に 世界に影響を与える宗教一覧」 参考文献

 1月11日に三島市のカフェcucurucuにて「神の名の元に 世界宗教一覧」についてお話させて頂きました。

 参加して下さった皆様、ありがとうございました。

 講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
 
 書名/著者
 ブッダ 真理の言葉/
 図説 ブッダの教え/高瀬広居 監修
 図説 聖書/船本弘毅 監修
 世界宗教の謎 イスラム教/ニール・モリス著 佐藤正英訳
 世界の三大宗教/井上順孝 監修
  


 ご参考にして下さい。

※次回は2月1日15時~「天武と持統 日本を創った夫婦」と題し、日本という国号を生み出し、実質的な日本の「建国の父」となる天武天皇の事績についてお話しします。  


Posted by かるの at 08:05Comments(0)世間士として

2015年01月11日

本日講演 「神の名の元に 世界に影響を与える宗教一覧」 散歩かふぇ ちゃらぽこにて

 本日15時より散歩かふぇ ちゃらぽこにて講演致します。

 内容は「神の名の元に 世界に影響を与える宗教一覧」です。


(釈迦が悟りを得た菩提樹)


 日々のニュースで流れる世界各地の宗教対立。
 宗教を敬遠する向きもあるが、民族の起源や文化、思考に大きな影響を与えている。
日本人にはなかなか知り得ない、世界各地の民族や地域のバックボーンにある世界各地に影響を与える宗教を一覧して紹介します。

 会費:1500円(ドリンク付き)

 時間:15時から

 開催場所はコチラ・


 ※駐車場がありません。公共交通機関か近隣の駐車場をお使い下さい。


 申し込みはオーナーメール、もしくはちゃらぽこさんへ直接お願いします。

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


Posted by かるの at 08:05Comments(0)世間士として

2015年01月08日

1月25日講演 「平安ならざる東国 兵(つわもの)、武士の世を開く」 沼津市 teshioにて

 1月25日14時より沼津市のカフェteshioにて講演致します。

 内容は「平安ならざる東国 兵(つわもの)、武士の世を開く」です。



平将門像


 平安時代。その呼び方とは裏腹に、東国では常に戦乱に包まれていた。
 後に幕府を開く事になる源頼朝を支えたのは、東国に秩序を求めた武士団であった。
 平安時代に兵(つわもの)と呼ばれ、幕府を開いた後に鎌倉武士となり全国へと拡がっていく背景についてお話します。
 
 「武士・荘園制度・貴族社会・平安時代・鎌倉時代」に関心がある方にオススメ。


 会費:500円
 ※飲食店ですので1人1オーダーのご協力をお願い致します。

 時間:13時半から

※お車でお越しの方は2人以上の相乗りで文化センターの駐車場をご利用頂くと、1時間無料になります。

 開催場所はコチラ・沼津市民文化センター内のカフェ・teshioにて  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)世間士として

2015年01月01日

福井県敦賀市・気比神宮

  ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
 神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
 ここでは私が尋ねた神社を紹介します。




 気比神宮は福井県敦賀市曙町11-68に座する神社。延喜式内社・越前国一宮で、旧社格は官幣大社である。



 祭神は伊奢沙別命 (いざさわけのみこと)、帯中日子命(たらしなかひこのみこと・仲哀天皇)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)
 『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見え、特に第14代仲哀天皇・神功皇后・第15代応神天皇との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。
 敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島・中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。



 例大祭は9月4日。主な神事は御誓祭(3月6日)・御名易祭(3月8日)・御田植祭(6月15日)・牛腸祭(6月16日)・総参祭(7月22日)・気比の長祭(9月2日-15日)。





大鳥居を気比神宮交差点から望む


大鳥居

寛永年間に建てられたこの大鳥居は日本三大木造大鳥居の一つに数えられ、大戦中の空襲を免れている事もあり国の重要文化財に指定されている。

気比の長命水

大宝2年(西暦702)、氣比神宮の造営中に涌きだしたと伝えられる。





敦賀の地名由来となった角賀(つぬが)神社

崇神天皇の頃、朝鮮半島の任那の王子・都怒我阿羅斯等(つぬが あらしと)が気比の浦に上陸し貢物を奉った。
天皇は気比大神宮の司祭と当国の政治を委ねたという。


大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)

式内社に比定され、古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。
明治9年(1876年)に村社に列したが、明治44年(1911年)に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。
角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。
祭神は大己貴命、合祀に稲荷神・金刀比羅神。例祭は10月10日


本殿向かって左手に鎮座する九社之宮

左から天伊弉奈彦・天伊弉奈姫・天利劔・伊佐々別・擬領・劔・金・林・鏡の9社。
天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の三社は「気比大神之御子」であるという。

気比宮古殿地

境内に隣接する敦賀北小学校校庭には「土公(どこう)」と称される小丘がある。
社伝では、気比大神はこの土公に降臨したという事から、土公は神宮の聖地とされており、周囲には卵形の石が八角形にめぐらされている。
大宝2年(702年)の社殿造営以前は土公を神籬として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、最澄・空海は当地で7日7夜の祈祷を行なったとも伝える。
この土公は聖別されているため、調査が行われておらず詳細は明らかでない。

市指定の天然記念物のユーカリ

常緑樹である事から武運長久を祈って陸軍関係者が昭和11年に植えた。

芭蕉の像



気比神宮の参拝を楽しみにしていた芭蕉は、「月清し 遊行のもてる 砂の上」など一夜に15句詠んだという。

旗掛けの松

南北朝の争乱の延元元年(1336)、北朝方の足利軍に対して、気比神宮宮司・気比氏治が南朝方として神宮の神旗を掲げた松である。

 神宮を出て、再び交差点に出ると見掛けたのが御砂持神事の像である

 正安3年(1301年)に神宮を参詣した他阿真教が敦賀に滞在した折、神社の周りが泥池のため参拝客が難儀しているのを見て、上人自らが先頭に立ち、僧侶や大勢の人たちと共に、浜から砂を運んで改修を行ったことに因んだ神事。
 今日まで、時宗の大本山遊行寺管長が交代したときに、この神事が行われている。


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Posted by かるの at 08:03Comments(0)神社探訪