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かるの
各地で歴史講座を展開中。歴史を知る事で、人生や地域が豊かになる事を目指して。
フリーマガジン「道の駅」にも寄稿中。
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2015年02月28日

ホントに歩く東海道 小田原~湯本編 ①

 散歩かふぇ ちゃらぽこさんと風人社さんの「ホントに歩く東海道」の小田原から箱根湯本までの会に参加しました。
 小田原を歩いてみたい、という友人も誘い参加しました。

 小田原駅にて集合し、まずは小田原城北側にある八幡山へ。
 北条氏以前の大森氏時代からの本来の小田原城とも言われる。

 八幡山からの小田原城


 では、改めて小田原城内へ。



昭和35年に天守が鉄筋コンクリート構造によって外観が復元された。ただし、天守の本来の姿を忠実に再現するものではないことから、木造での復元が構想されている。

城内は所々に動物園の名残がある。城跡って動物園になってる例がアチコチで見られるな。
小田原城跡には松の巨木が多い。江戸の描かれた古絵図にも本丸に松が描かれているのは、籠城時の燃料確保のためか?

昭和46年に外観復元が為された常盤木門

上は天守側から。下は外側から。


小田原市の天然記念物に指定されているイヌマキの大木

推定樹齢は400年、幹回りが5mほど。捻じれてるのが迫力ある。

関東大震災の時に崩れた石垣

小田原城は何度か訪れていますが、これは初めて見ました。ガイドが無ければ気付かなかったかも。

先程の崩れた石垣がある側には小田原市立図書館がある。小田原市立図書館は神奈川県内で4番目に開館した、50年以上の歴史を持つ図書館で、1959年に開館した現在の建物は昭和レトロな雰囲気。

入口を入ってすぐ左手に一人の人物の胸像がある。

星崎定五郎なる人物で、小田原市出身。戦前に20歳でアメリカに移民し、事業に成功。
幼少の頃に貧しさから勉強の機会に恵まれなかったので、子供の勉強と楽しみの為にと、星崎氏の5万ドルの寄付(当時1800万円)を元に、この建物が造られた事を記念し、星崎記念館という命名がなされた。

では城内を後にし、市街地へと向かう。

続く…。
  


Posted by かるの at 08:19Comments(0)店主

2015年02月26日

25日 高嶋酒造講演 「人の記憶 地の記憶 火山伝承を読む」 参考文献

2月25日、高嶋酒造にて「人の記憶 地の記憶 火山伝承を読む」についてお話させて頂きました。

 お越し下さった皆さん、ありがとうございました。
 

 講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
 
 書名/著者
 「「富士山の噴火―万葉集から現代まで」/つじよしのぶ」

 「天地鳴動-沼津と地震・噴火・津波-/沼津市明治史料館 編」

 「富士山噴火とハザードマップ - 宝永噴火の16日間/小山真人」
 
 「富士山宝永大爆発/永原慶二」

 「富士山 その自然のすべて  /諏訪彰 編」
 

 
 ご参考にしてください。

 なお、宝永噴火後の復興に関しては新田次郎氏の小説『怒る富士』があります。

※次回の高嶋酒造での講座は3月25日18時半から 「二宮金治郎 両道を歩み続けた男」と題し、二宮金治郎の生涯と、二宮が実践した報徳仕法と報徳思想についてお話しします。  


Posted by かるの at 08:16Comments(0)世間士として

2015年02月25日

本日講演 「人の記憶 地の記憶 火山伝承を読む」 沼津市 高嶋酒造にて

 本日18時半より講演致します。
 内容は「人の記憶 地の記憶 火山伝承を読む」です。


(宝永噴火の復興を指揮した代官・伊奈忠順)


 秀麗なる富士山。その姿からは火を噴くなど考えられないが、古代から中世に掛けては常に火を噴く山であった。
 そして宝永の大噴火において、富士山の噴火は社会にどんな影響を与えたのか。
 歴史に刻まれた富士山の噴火を体験した人の日記や伝承から、噴火に遭った人の感情や、土地に刻まれた先人たちの思いを掬って行きます。

 「富士山・火山・災害史・富士信仰・平安時代・江戸時代」に関心がある方にオススメ。

 参加費:700円。

 時間:18時30分から

 開催場所はコチラ・沼津市原の高嶋酒造にて


 ※駐車場がありません。公共交通機関での来場をお願いします。(JR原駅から徒歩5分)

 ※申し込みは高嶋酒造へメールでお願いします。「info★hakuinmasamune.com」(★を@に換えて下さい。)
 

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


Posted by かるの at 08:16Comments(0)世間士として

2015年02月24日

「Pacific Survivor JUKICHI」

 軽野造船所では余り知られていない歴史を伝えるという目的で、各地で歴史講座を展開してきました。

 その一環として、「歴史を伝える」手段の一つとして、Tシャツデザインに着目、作成しました。

 人の正面に向き合うデザインをきっかけとして、地域の歴史を呼び起こすきっかけになれば、という趣旨であります。

 歴史を繋げる、という事で、
 「Historical Transmission design
と銘打ちました。




「Pacific Survivor JUKICHI 」


 江戸時代に太平洋を484日に亘って漂流し、北米大陸に到達した督乗丸を表現したデザインです。
  督乗丸が出帆して漂流となった日付から、雨が降らなかった、魚を釣って食料にした、サメに襲われた、救助した船、北米に居た日本人、アラスカのロシア砦などの出来事を図案化しています。「JUKICHI」は督乗丸の船頭である重吉の事です。

 このに関しては拙講座「督乗丸漂流」にて取り上げています。

 お求めはヤフーショッピング内の軽野造船所ページでのネット通販、店頭では東高円寺・散歩かふぇ ちゃらぽこにて 
 
 写真の通り、基本色のネイビー、基本サイズS・M・L・XLを取り揃えています。価格は店頭でご確認ください。

 特注で様々なカラー、サイズも作成できます。以下のカラーバリエーション、サイズ表を目安にして下さい。

 ※特注の場合はメールにて、Tシャツカラーとサイズをご連絡ください。オーダーから三週間ほど掛かります。
特注価格 4000円


 これからも様々なデザインを展開していきますので、よろしくお願いします。  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)Historical Transmission design

2015年02月23日

長浜・木之本散策 ③



パンを食べて、「大河ドラマ館」に入る。

「軍師官兵衛」で使用されている小道具や衣装、台本から、ドラマの出演者のパネルや衣装の展示を行うほか、映像シアターでは木之本を舞台にした戦国武将らの物語をドラマのシーンを交えて見ることができる。
会場内は残念ながら撮影禁止。

会場となる戦国大河きのもと館は、旧滋賀銀行の建物を改築し、きのもと交流館として文化発信基地となっている。
2012年に開催された長浜・戦国大河ふるさと博より、名称を戦国大河きのもと館と改め、賤ケ岳合戦や七本槍で活躍した武将を中心に紹介する展示を行っている。その事から、今回も賤ヶ岳合戦に関してのジオラマを使った解説に熱がこもっていたが、正直な所、解説してくれる方が余り慣れてないのが残念。
映像もナレーションがプロの方では無いようで、聞き取り辛い。

ここで木之本を離れ、もう一つの会場・長浜城へ向かう。
北陸本線に乗り込む時間がギリギリで走り込む形になったので、土産なども物色する時間が無かった。

長浜城


以前も長浜は訪れたが、長浜城は来ていなかったので新鮮である。

長浜城は元々は歴史系の博物館であるので、「歴史館」という位置づけ。博物館としては来場者は結構、多い。
ここも館内の撮影は禁止。

屋上は展望が望める。
琵琶湖方面


伊吹山方面。

手前のマンションが景観良くない。このマンション無ければ、長浜の城下町であった名残も一望できるのに勿体ない。

下りて公園をぐるりと。


このあずまやは、大正時代に造られたそうだ。


ここから城下町の散策へ。

前に見逃していた長浜タワービル

昭和39年に、地元の資産家が「長浜にも東京タワーのような名物を」という理由で建設。ビルは5階建てで、開業当時は5階部分が有料の展望台になっていたが現在は閉鎖している。
なおビルの正面には「NAGAHAMA TOWERBILL」と英語表記が入るが「Bill」はスペルミス。なんとなく、地方のスキの甘さを感じてしまう。

ビル内は雑居ビルになっており、現在は1階部分に2軒の飲食店が入居している。

市街地を散策し、食事を茂美志屋にて。
長浜の郷土料理であるのっぺいうどんの近江牛・椎茸・きつねの各種。



のっぺいうどんは汁にとろみがあり温まる。

赤こんにゃく

クセがありそうと思ってましたが、むしろ一般的なこんにゃくよりクセが全く無く美味しい。

しかし、鴨を頼もうと思っていたが終わってしまった。更に、焼き鯖鮨も。
これを受けてそんなに好きでもないが、無性に焼き鯖が食べたくなり、店を出た後も数軒に亘って土産物屋や食事処を回ったが、どこも売り切れ。そんなに焼き鯖好きなのか?
歩いてる内に雪が舞い降りて来たが、そろそろ帰る時間となったので、ここで撤退とする。
  


Posted by かるの at 08:18Comments(0)店主

2015年02月21日

本日講演 「平氏一門 時代を切り拓く一族」 沼津市 teshioにて

内容は「平氏一門 時代を切り拓く一族」です。


(平清盛像)


 旧い体制がほころび新しい時代が人々に望まれた時、その礎を築いたのが平氏の一門であった。
 しかし彼らの多くが新しい時代に関わる事無く、歴史の表舞台から去って行った。
 歴史の転換点に平家の人物が関わった点と、その一門を代表する「桓武天皇」「将門」「清盛」「信長」らに焦点を当てます。

 「武家政権・桓武天皇・中世・平将門・平清盛・織田信長・地政学」に関心がある方にオススメです。

 会費:500円
 ※飲食店ですので1人1オーダーのご協力をお願い致します。

 時間:14時から

※お車でお越しの方は2人以上の相乗りで文化センターの駐車場をご利用頂くと、1時間無料になります。

 開催場所はコチラ・沼津市民文化センター内のカフェ・teshioにて


  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)世間士として

2015年02月19日

長浜・木之本散策 ②



つるやパン

 ここは「サラダパン」なる惣菜パンの店として有名な店である。
 以前、テレビ番組でサラダパンを取り上げていて、「刻み沢庵のマヨネーズ和え」というインパクトで覚えていたのであった。
 店内を訪れてみると、サラダパンを三千円分購入している人が居て、人気の程が伺えるのと同時に「オイオイマジかよ」という気分であったが、サラダパン以外も色々と種類があってお昼用として購入。

つるやパンの向かい斜めにある本陣薬局

 この本陣薬局は、北国街道の宿場の本陣・竹内五左衛門家である。
 薬局となった経緯は、明治26年に薬剤師の免許制度が出来た際、取得第一号で開いた薬局である。

 薬局の木製看板の数々




 荒物屋さん


 白木屋醤油店


 近代の看板建築も残っている


 自販機は駅でも見掛けた「佐吉くん」


 軍師官兵衛館に到着。
 ちょうど12時、という事で、先ほどつるやで購入したパンを食べる事にする。

 サラダパン

 黒田パンべぇ・・・

 ザクチョコ。ザクっとした食感だからの命名と信じたい。

 サラダパン、当初は色物と思ってましたが、沢庵の匂いは無く、更にパン生地自体が非常に美味しく頂きました。
 また買いたいと思う。

 続く…
  


Posted by かるの at 08:08Comments(0)店主

2015年02月18日

3月8日講演 「平安ならざる東国 武家の世を開いたつわものたち」 散歩かふぇ ちゃらぽこにて

 3月8日15時より散歩かふぇ ちゃらぽこにて講演致します。

 内容は「平安ならざる東国 武家の世を開いたつわものたち」です。



平将門像


 平安時代。その呼び方とは裏腹に、東国では常に戦乱に包まれていた。
 後に幕府を開く事になる源頼朝を支えたのは、東国に秩序を求めた武士団であった。
 平安時代に兵(つわもの)と呼ばれ、幕府を開いた後に鎌倉武士となり全国へと拡がっていく背景についてお話します。
 
 「武士団・荘園制度・貴族社会・平安時代・鎌倉時代」に関心がある方にオススメ。

 会費:1500円(ドリンク付き)

 時間:15時から

 開催場所はコチラ・


 ※駐車場がありません。公共交通機関か近隣の駐車場をお使い下さい。


 申し込みはオーナーメール、もしくはちゃらぽこさんへ直接お願いします。

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


Posted by かるの at 08:03Comments(0)世間士として

2015年02月17日

長浜・木之本散策 ①

 昨年放送されていた大河ドラマ「軍師官兵衛」。大河ドラマの人物ゆかりの地では、大河ドラマにちなんだ展示館が開設されますが、軍師官兵衛の主人公・黒田官兵衛は先祖が滋賀県長浜市木之本である、という事で、当地に軍師官兵衛館が開設されましたが、その最終日に行って来ました。

 木之本駅


 駅から案内が出ています。


 石田三成モチーフのゆるキャラ・佐吉くん

 秀吉にお茶を淹れた事で家臣になったエピソードからでしょうか。

 唐突に秀吉の兜。しかし説明などは無い・・・


 「軍師官兵衛館」は駅から歩いて徒歩10分ほど。

 所々に雪が残ってました。


 商店街はニコニコだったり強そうだったり


 木之本地蔵尊

 実際は浄信寺という時宗の寺。
 七世紀頃にはあったという由緒深い寺。空海、源義仲、足利尊氏、足利義昭などにゆかりがあり、羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦いの際には本陣とされたが、その関係で兵火に罹り焼失してしまった。
 境内には秘仏とされている本尊の写しである、高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされている。

 木之本はこの木之本地蔵尊を中心に街道筋と門前町が重なった形である。


 ここの場所に立った時に既視感が。かつて、旅をしていた時に通った通った所であった。

続く…

  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)店主

2015年02月16日

2月15日 くれば講演 「海越え、果つる地まで ~雄飛と絶望の移民史~」について参考文献

2月15日、静岡市のくればにて「海越え、果つる地まで 雄飛と絶望の移民史」についてお話させて頂きました。

 お越し下さった皆さん、ありがとうございました。
 

 講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
 
 書名/著者
 「アメリカに生きた日本人移民: 日系一世の光と影/村山裕三」

 「日本人移民: ハワイ, 北米大陸/藤崎康夫, ‎山本耕二 」

 「サンダカン八番娼館/山崎朋子 」
 
 「静岡県と満州開拓団/櫻井規順」

 「ブラジルへ: 日本人移民物語/藤崎康夫 」
 

 
 ご参考にしてください。

※次回のくればでの講座は、3月29日14時から「巨船の航跡 核の時代の二律背反」と題し、日本に原子力が導入されていった経緯についてお話します。  


Posted by かるの at 08:16Comments(0)世間士として

2015年02月15日

本日講演 「海越え、果つる地まで 雄飛と絶望の移民史」 静岡市 くればにて

 本日14時より静岡市のシニアライフ支援センター「くれば」にて講演致します。

  内容は「海越え、果つる地まで 雄飛と絶望の移民史」です。


(第二次大戦中、アメリカ国内の日系人が強制収容された)


日本が開国を迎え諸外国との交流が始まると、多くの日本人が海外へと渡り懸命に働いた。遠い異国の地で成功を掴んだ者、絶望に打ちひしがれた者、悲喜交々の姿があった。
ハワイ、アメリカ、南米、満州・・・明治以後に国策として進められた移民の歴史を語ります。

 「明治時代・開拓・移民・プランテーション・近代史・人口論」に関心がある方にオススメ。

 会費:500円(+ワンオーダーをお願いします)。


 開催場所はコチラ・静岡市両替町2丁目3-6大原ビル1F シニアライフ支援センター「くれば」
 


 申し込みはコチラから。054(252)8018
 もしくはオーナーメールで直接お願いします。


 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました
  


Posted by かるの at 08:16Comments(0)世間士として

2015年02月14日

ちゃらぽこ城跡探索「戦国城郭 河越城跡と小江戸川越散策」 ⑥コバトンに会う

先回の続き…。

川越を発ち、帰宅する前に埼玉県庁にあるコバトンカフェへ

埼玉県のゆるキャラであるコバトン。このカフェは埼玉県の食材をふんだんに使ったピッツェリアカフェである。







店内にはコバトンがいっぱい。



コバトングッズも


食事も美味しく頂きました。




コバトンカフェを出て浦和駅前は赤いLED

てっきり珊瑚かと思いましたが、浦和REDSからですかね。

浦和うなこちゃん デザインはやなせたかし氏

浦和は中山道の宿場として鰻が名物で、蒲焼発祥の地であるそうだ。


これを以って帰宅へ。  


Posted by かるの at 08:16Comments(0)店主

2015年02月13日

3月3日講演 「会津藩 守り続けた真の侍」 沼津市 Lot.nにて

 3月3日18時半から沼津市のLot.nにて行います。


 内容は「会津藩 守り続けた真の侍」です。


(会津藩藩祖・保科正之)


 江戸時代、会津藩は徳川御三家に次ぐ家格とされ、藩祖・保科正之から蝦夷地警護、幕末の江戸湾警護、京都守護職など、御三家以上に幕府に忠義を果たした。
 武士の中の武士と言える会津藩の歴史と、その精神を生んだ背景についてお話しします。

 「会津藩・江戸時代・蝦夷地警護・海防・教育史・武士道」に関心がある方にオススメ。


 会費:1000円(ドリンク付き)

 時間:18時半から

 開催場所はコチラ・沼津市上土町10 (それまでの店舗の道向かいです

)  
 ※移転先の営業開始は二月初旬からです

 ※駐車場がありません。公共交通機関か近隣の駐車場をお使い下さい。

 申し込みはオーナーメール、もしくはLot.nさんへ直接お願いします。
 携帯電話055-919-1060

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


Posted by かるの at 08:02Comments(0)世間士として

2015年02月11日

ちゃらぽこ城跡探索「戦国城郭 河越城跡と小江戸川越散策」 ⑤蔵の街並み



東明寺

この寺の境内には「河越夜戦跡」の石碑がある。

天文15年(1546年)4月20日、小田原の後北条氏の武蔵国進出を決定づけた上杉氏との合戦・河越夜戦の激戦地は東明寺の寺領であった。その事から、河越夜戦は「東明寺口合戦」ともいう。
将兵の遺骸を納めた富士塚や大銀杏が今も残っている。

ただ、河越夜戦は無かったという解説が。
河越城の争奪戦が何度も繰り返された経緯の総兵力を一度の夜襲で壊滅させたかのような軍記物の脚色であるという。北条氏側の記録では日中に合戦があったという。

東明寺近くの趣ある邸宅


ここから川越の蔵の街並みへ向かう。

川越市役所の太田道灌像


市役所近くの銅板葺きの建築


しかし、ここで皆さんから外れ一旦博物館に戻る。
先程は全部見きれない内に出てしまったので、閉館時間前に行く。

川越特有の蔵の断面


ざっとではあるが全て見る事が出来た。
ここから解散する場所へと向かうが、間に合わず解散してしまったとの連絡。残念ではあるが、暗くなりつつある中、蔵の街並みへ。

川越を代表する場所・時の鐘

3層構造の塔で、高さは16メートル。寛永年間に川越藩藩主・酒井忠勝によって建設された。
古くは鐘撞き守が決まった時間に時を知らせていた。残したい日本の音風景100選に選ばれている。

蔵が立ち並ぶ通りへ

この通りは川越の主な通りでは無く、商店の蔵が並んでいた云わば倉庫群であったが、蔵が立ち並ぶ景観が江戸時代を思わせる観光地になった。現在は、毎年620万人もの人が訪れます。

蔵の通りになった経緯は、明治26年3月、川越は大火に見まわれ、数軒の蔵が焼け残った。この事から蔵は火事に強いと言う事になり、以降次々に蔵が建ち始めました。そして、最盛期には100軒もの蔵が建ち並び、現在でも30軒程の蔵が残っています。

左側が田中屋仲町店、右側が旧山吉デパートであった建物。

現在は田中屋はカフェ・エレバート、旧山吉デパートは保刈歯科医院となっている。



旧第八十五銀行

現在は埼玉りそな銀行川越支店。この建物は大正7年に建てられた物で、鉄骨鉄筋コンクリート造りで高さ25mの三階建て。国の登録有形文化財に指定されている。
銀行の看板は景観を考慮し、建物の裏に隠れる様に設置されている。

旧鶴川座

旧鶴川座は明治三十一年に蓮馨寺内に建てられた芝居小屋。明治時代の始めに松蓮座(しょうれんざ)という芝居小屋があったが、明治二十六年に焼失し、鶴川座と名を改めて再建された。
再建後は芝居興行を中心に講演会場としても使用され、大正時代になると浅草で人気のあった活動写真の上映もあった。
大正十一年までに、外観がタイル張りの洋風に改築されるが、内部の席は升席のままで、回り舞台もそのまま使われていた。その後、映画館や貸しスタジオ、店舗にも転用され、増築・改築が繰り返されてきた建物です。

埼玉は近年、アニメの舞台になる町が多いので、それに合わせた旅も。


続く・・・


  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)店主

2015年02月10日

2月25日講演 「人の記憶 地の記憶 火山伝承を読む」 沼津市 高嶋酒造にて

 2月25日18時半より講演致します。
 内容は「人の記憶 地の記憶 火山伝承を読む」です。


(平安時代・延暦年間の噴火を鎮護する目的で造営された須走浅間神社)


 秀麗なる富士山。その姿からは火を噴くなど考えられないが、古代から中世に掛けては常に火を噴く山であった。
 そして宝永の大噴火において、富士山の噴火は社会にどんな影響を与えたのか。
 歴史に刻まれた富士山の噴火を体験した人の日記や伝承から、噴火に遭った人の感情や、土地に刻まれた先人たちの思いを掬って行きます。

 「富士山・火山・災害史・富士信仰・平安時代・江戸時代」に関心がある方にオススメ。

 参加費:700円。

 時間:18時30分から

 開催場所はコチラ・沼津市原の高嶋酒造にて


 ※駐車場がありません。公共交通機関での来場をお願いします。(JR原駅から徒歩5分)

 ※申し込みは高嶋酒造へメールでお願いします。「info★hakuinmasamune.com」(★を@に換えて下さい。)
 

 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)世間士として

2015年02月09日

ちゃらぽこ城跡探索「戦国城郭 河越城跡と小江戸川越散策」 ④川越歴史博物館



二の丸跡に建つ市立博物館


博物館敷地内には霧吹の井戸がある。

昔、川越城の片隅に霧吹の井戸と呼ばれる井戸があり、いつもは井戸に蓋がしてあり敵が攻めてきて城が一大事、という時にこの蓋をとると、中から霧がたちこめ、たちまち城を包み隠してしまったという。
川越城は、こうした伝説から一名「霧隠城」とも呼ばれた。
この手の話は掛川城にもあったが、元ネタが気になる所である。

博物館内の喫茶店で昼食。散策前に選んでいたのに、出て来たのがだいぶ時間が掛かった。
同席した人と色々と話す。
食後に展示を見る。

川越城の周辺地形ジオラマにて解説を受ける


博物館の展示は大体、古代から現在に至るまでという形が多いが、ここではやはり「小江戸川越」が有名であるので、近世から古代に遡る、という展示形態になっている。


三割も見ていないが、ここで博物館を出る時間になってしまったので一旦出る。

川越城中の門堀

 堀は現在の市役所付近に当たる西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むために巧みに配された堀の一つ。堀と堀の間に中ノ門がかつて存在していた。門は二階建ての立派な櫓門であった。

 城壁側とその反対側の法面の勾配が異なり、進入速度を減速させる。詳しくはコチラ

川越氷川神社

関東三大まつりで国の重要無形民俗文化財である川越祭り(川越氷川祭)は、元々氷川神社の例大祭である。
創建は古く、欽明天皇2年(541年)とされる。太田道灌をはじめ、歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。

「あい鯛」なる御籤

鯛の中におみくじが入っており、縁を釣りあげる。
川越氷川神社は縁結びで知られており、境内の白い小石を持ち帰って、お守りにすると良縁に恵まれるという言い伝えがある。神社ではそれを「縁結び玉」として、毎日限定20個を朝8時から配布している。
また、結婚式のなかで行われる誓いの儀式「結い紐の儀」は川越氷川神社独自の儀式として商標登録されている。
敷地内に、結婚式場である氷川会館がある。埼玉県内では唯一の神社隣接の専門結婚式場として知られる。

太田道灌手植えの竹と言われる。

「老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪」という歌を残した。

人形を流す小川もある


続く…
  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)店主

2015年02月08日

2月21日講演 「平氏一門 時代を切り拓く一族」 沼津市 teshioにて


内容は「平氏一門 時代を切り拓く一族」です。


(平氏一門の祖となった桓武天皇)


 旧い体制がほころび新しい時代が人々に望まれた時、その礎を築いたのが平氏の一門であった。
 しかし彼らの多くが新しい時代に関わる事無く、歴史の表舞台から去って行った。
 歴史の転換点に平家の人物が関わった点と、その一門を代表する「桓武天皇」「将門」「清盛」「信長」らに焦点を当てます。


 「武家政権・桓武天皇・中世・平将門・平清盛・織田信長・地政学」に関心がある方にオススメです。


 会費:500円
 ※飲食店ですので1人1オーダーのご協力をお願い致します。

 時間:14時から

※お車でお越しの方は2人以上の相乗りで文化センターの駐車場をご利用頂くと、1時間無料になります。

 開催場所はコチラ・沼津市民文化センター内のカフェ・teshioにて


  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)世間士として

2015年02月06日

ちゃらぽこ城跡探索「戦国城郭 河越城跡と小江戸川越散策」 ③川越城本丸御殿



 改めて川越城の変遷。
 扇谷上杉氏の家臣・太田資清、資長父子に命じて築城したもの。
 やがて川越城は、天文6年(1537)小田原北条氏の占拠する所となり、北条氏が関東の覇権を握るきっかけとなった河越夜戦は日本三大の奇襲の一つに数えられる。その後、城代として譜代の重臣・大道寺氏を配置。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際して川越城は落城。徳川家康の関東に移封に及び、重臣・酒井重忠が封じられ、川越藩の基礎が成立。酒井忠勝・松平信綱・柳沢吉保など幕府の要職についた歴代藩主が多く、老中数七名は全国でも最多の藩であり、特に江戸時代中期までは「老中の居城」であった。
 寛永16年(1639)、川越藩主となった松平信綱は川越城の拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整え、本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、三つの櫓、十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いて4万6千坪となる。
 関東七名城・日本100名城。別名、初雁城と呼ばれた名残が、隣接する公園名になる。これは毎年同じ時期に初雁が飛来し、太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折も初雁が来て鳴いたことから道灌が「初雁城」と命名した事に因む。

川越城本丸御殿

 川越城本丸御殿は、嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典(なりつね)が造営。16棟、1025坪の規模があった。
 多くの建物が明治維新後に解体されたが、玄関部分と移築復元された家老詰所は現存しており、本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城の他には高知城のみと貴重な遺構であることから埼玉県指定文化財である。

表廊下

表廊下は、長さ35.5メートル、幅2.8メートルあり、母屋の中にある部屋の四方を囲う。
玄関部分に接する表廊下は、けやきの鏡板でできています。

修復の関係で新旧の瓦の境目が見える


家老詰所。

川越藩主は年間を通じて江戸に詰めており、川越藩の政務は、家老を中心として行われていたと考えられ、この部屋が、その中心であった。
等身大の人形を使って、家老たちが藩政を論じる場面を再現しており、内容は江戸湾防備の話し合いのようです。川越藩は幕末に江戸湾の警固を担当していた。

当時の便所

木製の便器は臭いや汚れが滲みそう・・・

戦後は川越市立第二中学校(現在は初雁中学校)の校舎や屋内運動場として使用されていたため、天井にボールの跡が残っている。


杉戸絵

川越藩の御用絵師・船津蘭山の作。松・竹林・蘆雁などが描かれている。
嘉永3年(1850)5月14日、藩主から絵の制作を命じられ、完成までに7年の歳月が費やされました。
 
 幾何学的な模様の欄間


 釘隠しにも装飾


当時の調度品も展示されています。




次は博物館に向かいます。

続く…

  


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2015年02月05日

2月15日講演 「海越え、果つる地まで 雄飛と絶望の移民史」 静岡市 くればにて

 2月15日14時より静岡市のシニアライフ支援センター「くれば」にて講演致します。

  内容は「海越え、果つる地まで 雄飛と絶望の移民史」です。


(ブラジルに最初の移民を乗せた笠戸丸)


日本が開国を迎え諸外国との交流が始まると、多くの日本人が海外へと渡り懸命に働いた。遠い異国の地で成功を掴んだ者、絶望に打ちひしがれた者、悲喜交々の姿があった。
ハワイ、アメリカ、南米、満州・・・明治以後に国策として進められた移民の歴史を語ります。

 「明治時代・開拓・移民・プランテーション・近代史・人口論」に関心がある方にオススメ。

 会費:500円(+ワンオーダーをお願いします)。


 開催場所はコチラ・静岡市両替町2丁目3-6大原ビル1F シニアライフ支援センター「くれば」
 


 申し込みはコチラから。054(252)8018
 もしくはオーナーメールで直接お願いします。


 ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
 本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました
  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)世間士として

2015年02月04日

ちゃらぽこ城跡探索「戦国城郭 河越城跡と小江戸川越散策」 ②川越城へ



喜多院を出て、川越城跡に向かう。
喜多院からはやや下り傾斜があるが、かつてこの辺りは一面の湿地帯で、そこに城があるという地形であった。

看板建築風


川越城 大手門前


現在は小学校の校門に碑が建っている。

川越城 富士見櫓

かつて、この高台の上に川越城一の高さを誇った富士見櫓が建てられていた。

そして、皆が立っている場所は濠であり、かつては水が引き入れられていた。




登ります


富士見櫓の頂部から

こう見ると、道行く人を狙撃できる位置というのが分かる。

富士見櫓から城内にある三芳野神社へ。
三芳野神社は約1200年前に創建された神社であり、その参道は童謡「とおりゃんせ」の発祥の地とだと言われている。


 元々は三芳野神社が先に在ったが、後に川越城が構築された際、神社も取り込む形となった。これにより一般庶民が参拝できたのは年一度の大祭の時だけとなった。


 この土塁は現在は削られているが、これを超えた先は川越城の本丸。

 この為、参拝時の警備は厳しく挙動不審なものはどやしつけられたそうです。そんな庶民の思いが童謡になって広まったと言われています。

 わらべ歌発祥の所


 そのすぐ裏が本丸御殿になる。


続く…。
  


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