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2016年09月01日
長野県阿智村・阿智神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

阿智神社は長野県下伊那郡阿智村智里489に座する、延喜式内社に比定されている旧郷社の神社である。

創祀年代は不詳。社伝によると人皇第八代孝元天皇五年春正月、祭神である天八意思兼命が御子神を従えて信濃国に天降り鎮座したという。
民を率いて阿智の地方の中心に伊那西南部一帯の経営開拓にあたった。信濃国、三大古族の一つ阿智族の本拠で駒場町に鎮座する安布知神社と共にその祖先神であり、守護神を祭る神社である。

鎮座地である「昼神」の地名は「蒜噛」を好字に替えたもの。
『日本書紀』景行天皇四十年の条に、日本武尊が信濃の山中で白鹿となって現れた神に蒜(ひる)を投げつけて殺したため道に迷って難渋したが白い犬に助けられ美濃に出たとあり、以前は、信濃坂を越える者は、神の気を受けて病になる者が多かったが、この後は、山を越えるものは蒜を噛んで人や牛馬に塗ると神気にあたらなくなったとある。

祭神は天八意思兼命 天表春命
天表春命は帰化人である阿智祝の祖と考えられ、出雲系の諏訪族に対する、天孫系の尖兵として当地に駐留したと伝えられ、奥宮の地は天表春命の墳墓という説がある。

例大祭は10月14日






今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

阿智神社は長野県下伊那郡阿智村智里489に座する、延喜式内社に比定されている旧郷社の神社である。

創祀年代は不詳。社伝によると人皇第八代孝元天皇五年春正月、祭神である天八意思兼命が御子神を従えて信濃国に天降り鎮座したという。
民を率いて阿智の地方の中心に伊那西南部一帯の経営開拓にあたった。信濃国、三大古族の一つ阿智族の本拠で駒場町に鎮座する安布知神社と共にその祖先神であり、守護神を祭る神社である。

鎮座地である「昼神」の地名は「蒜噛」を好字に替えたもの。
『日本書紀』景行天皇四十年の条に、日本武尊が信濃の山中で白鹿となって現れた神に蒜(ひる)を投げつけて殺したため道に迷って難渋したが白い犬に助けられ美濃に出たとあり、以前は、信濃坂を越える者は、神の気を受けて病になる者が多かったが、この後は、山を越えるものは蒜を噛んで人や牛馬に塗ると神気にあたらなくなったとある。

祭神は天八意思兼命 天表春命
天表春命は帰化人である阿智祝の祖と考えられ、出雲系の諏訪族に対する、天孫系の尖兵として当地に駐留したと伝えられ、奥宮の地は天表春命の墳墓という説がある。

例大祭は10月14日






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2016年08月01日
静岡県小山町・東口本宮冨士浅間神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

東口本宮冨士浅間神社(須走浅間神社とも)は静岡県小山町須走126番地に座する旧県社の神社である。

平安時代初頭の延暦21年(802)、富士山東麓が噴火をしたため、須走に斎場を設けて祭事を行い鎮火の祈願を行った。それにより同年四月初申の日に噴火が収まったため、大同2年(807年)に鎮火祭の跡地に、報賽のため社殿を造営したと伝えられている。
表参道にある石製の大鳥居。

扁額には「不二山」の文字が刻まれており、「二つとない(不)素晴らしい山=不二山・富士山」という意味である。
他の神社では見られない当社特有の鳥居である。明治33年に氏子より寄進された。
随神門

本殿同様に宝永の噴火で壊れたが、当時この地方を治めていた小田原藩主・大久保加賀守によって再建された。
表の両脇には、随神(門神)・櫛岩間戸神と豊岩間戸神が鎮座し、裏の両脇には例大祭で担がれる富士山神輿が二基納められている。
掲げられている扁額「國威震燿」は日清戦争の戦勝と兵士の健康を祈念し、富士講・村上藤丸講により寄進されたもので、文字は小松宮彰仁殿下に依るもの。
随神門前の「獅子の子落とし」を模する富士塚の狛犬(阿形)

昭和初期に山三元講より寄進されたもの。
富士塚を模した岩場の上に「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」という、「獅子の子落とし」の諺を倣った親子の狛犬が3匹いる。
他に類を見ない極めて珍しい狛犬である。
創建後まもない平安時代には、弘法大師(空海)が当社にて修行を行い、富士登山をしたという伝承も存在したことから、かつて中世期頃までは弘法寺浅間宮と称されていた。
拝殿

本殿・幣殿・拝殿が一体となっている権現造。
現在の社殿は富士山・宝永の噴火後に再建された当時の遺構をそのままに修復・修繕を行ってきたものである。
その後も屋根の葺替えや修繕などが行われてきたが、昭和33年の修繕に際して屋根が千鳥破風に変更された。
平成19年の御鎮座1200年際に際し、記念事業の一環として大修理が行われ、同21年に竣功して現在に至る。外観はその際に整備され、塗装には大々的に漆が使われている。
尚、社殿の一部機構には江戸期の木材がそのまま流用されていることが確認されており、平成18年には小山町有形文化財に指定された。


室町時代後半(戦国期)・江戸時代には、一般庶民による富士山登拝信仰・富士講や修験道者の信仰を集め、須走口登山道・須走の宿場町とともに栄え賑わった。
この頃より、須走口登山道の9合目・迎久須志之神社、6合目・胎内神社、5合目・古御岳神社、4合目・御室浅間神社、2合目・雲霧神社は当社の神主により祭祀が行われていた。
祭神は木花咲耶姫命、大己貴命、彦火火出見命
末社・恵比須大国社

境内末社の一社。かつて、当社社殿裏には裏神様が祀られており、その分霊が小山町・富士紡の工場敷地内に祀られていた。工場内の事情により当社へと戻られ、当社の裏神様と合祀して、境内末社にて祀られることとなった。
御祭神は、大国主命と事代主命。例祭は、11月下旬に斎行する。
末社・社護神社

境内末社の一社。かつては、日枝神社・山神社・琴平神社・霧島神社・高尾神社・社護神社という六社が境内末社として御鎮座されていたが、現在はこの社護神社に合祀をしている。御祭神は、社護神社の月讀命、日枝神社の金山彦命の他、13柱の神々を祀る。
例祭は、毎年十五夜の日に斎行。
その他、商売繁昌を祈願する高尾祭という祭典が、地元講元により毎年12月1日に斎行する。
神社脇にはかつての鎌倉街道を復元している。

江戸時代には東口登山道=須走口登山道の本宮として、駿河国と甲斐国を結ぶ交通の要所であった須走村(現・駿東郡小山町須走)の宿場町とともに栄えた。
例大祭は5月5日
大正時代から昭和時代初頭は富士講による登山参拝者が最も増えた時期であり、富士講信者の建てた登拝碑の数々

富士登山では33回が1つの記念すべき区切りとされている。当社に残る石碑の中で最も多い回数は、和歌山県の方による899回である。

浅間神社神主の下に編成された須走村の御師は小田原藩及び京都の吉田家の庇護を受け、その活動は関東一円に広がった。
特に宝永大噴火によって須走村がほぼ全焼全壊し農業が壊滅的な打撃を受けると、御師などの富士登山関連に依拠する側面が強まり、これを統制するために寛延2年(1749年)に浅間神社の神主と小田原藩の主導で既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らのみが御師として神職待遇を受ける事が認められた。
境内に水が湧きだしており、それが参道入り口には信しげの滝となっている。

かつて滝の整備が行われた際に「信しげ」と書かれた石が発掘されたことから、一説では富士講関係者の名前であると考えられているが、推測の域を出ない。


2013年(平成25年)、富士山がユネスコの世界文化遺産に登録された際には、構成資産の一つとして登録された。合わせて、須走口登山道も別に構成資産として登録された。
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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

東口本宮冨士浅間神社(須走浅間神社とも)は静岡県小山町須走126番地に座する旧県社の神社である。

平安時代初頭の延暦21年(802)、富士山東麓が噴火をしたため、須走に斎場を設けて祭事を行い鎮火の祈願を行った。それにより同年四月初申の日に噴火が収まったため、大同2年(807年)に鎮火祭の跡地に、報賽のため社殿を造営したと伝えられている。
表参道にある石製の大鳥居。

扁額には「不二山」の文字が刻まれており、「二つとない(不)素晴らしい山=不二山・富士山」という意味である。
他の神社では見られない当社特有の鳥居である。明治33年に氏子より寄進された。
随神門

本殿同様に宝永の噴火で壊れたが、当時この地方を治めていた小田原藩主・大久保加賀守によって再建された。
表の両脇には、随神(門神)・櫛岩間戸神と豊岩間戸神が鎮座し、裏の両脇には例大祭で担がれる富士山神輿が二基納められている。
掲げられている扁額「國威震燿」は日清戦争の戦勝と兵士の健康を祈念し、富士講・村上藤丸講により寄進されたもので、文字は小松宮彰仁殿下に依るもの。
随神門前の「獅子の子落とし」を模する富士塚の狛犬(阿形)

昭和初期に山三元講より寄進されたもの。
富士塚を模した岩場の上に「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」という、「獅子の子落とし」の諺を倣った親子の狛犬が3匹いる。
他に類を見ない極めて珍しい狛犬である。
創建後まもない平安時代には、弘法大師(空海)が当社にて修行を行い、富士登山をしたという伝承も存在したことから、かつて中世期頃までは弘法寺浅間宮と称されていた。
拝殿

本殿・幣殿・拝殿が一体となっている権現造。
現在の社殿は富士山・宝永の噴火後に再建された当時の遺構をそのままに修復・修繕を行ってきたものである。
その後も屋根の葺替えや修繕などが行われてきたが、昭和33年の修繕に際して屋根が千鳥破風に変更された。
平成19年の御鎮座1200年際に際し、記念事業の一環として大修理が行われ、同21年に竣功して現在に至る。外観はその際に整備され、塗装には大々的に漆が使われている。
尚、社殿の一部機構には江戸期の木材がそのまま流用されていることが確認されており、平成18年には小山町有形文化財に指定された。


室町時代後半(戦国期)・江戸時代には、一般庶民による富士山登拝信仰・富士講や修験道者の信仰を集め、須走口登山道・須走の宿場町とともに栄え賑わった。
この頃より、須走口登山道の9合目・迎久須志之神社、6合目・胎内神社、5合目・古御岳神社、4合目・御室浅間神社、2合目・雲霧神社は当社の神主により祭祀が行われていた。
祭神は木花咲耶姫命、大己貴命、彦火火出見命
末社・恵比須大国社

境内末社の一社。かつて、当社社殿裏には裏神様が祀られており、その分霊が小山町・富士紡の工場敷地内に祀られていた。工場内の事情により当社へと戻られ、当社の裏神様と合祀して、境内末社にて祀られることとなった。
御祭神は、大国主命と事代主命。例祭は、11月下旬に斎行する。
末社・社護神社

境内末社の一社。かつては、日枝神社・山神社・琴平神社・霧島神社・高尾神社・社護神社という六社が境内末社として御鎮座されていたが、現在はこの社護神社に合祀をしている。御祭神は、社護神社の月讀命、日枝神社の金山彦命の他、13柱の神々を祀る。
例祭は、毎年十五夜の日に斎行。
その他、商売繁昌を祈願する高尾祭という祭典が、地元講元により毎年12月1日に斎行する。
神社脇にはかつての鎌倉街道を復元している。

江戸時代には東口登山道=須走口登山道の本宮として、駿河国と甲斐国を結ぶ交通の要所であった須走村(現・駿東郡小山町須走)の宿場町とともに栄えた。
例大祭は5月5日
大正時代から昭和時代初頭は富士講による登山参拝者が最も増えた時期であり、富士講信者の建てた登拝碑の数々

富士登山では33回が1つの記念すべき区切りとされている。当社に残る石碑の中で最も多い回数は、和歌山県の方による899回である。

浅間神社神主の下に編成された須走村の御師は小田原藩及び京都の吉田家の庇護を受け、その活動は関東一円に広がった。
特に宝永大噴火によって須走村がほぼ全焼全壊し農業が壊滅的な打撃を受けると、御師などの富士登山関連に依拠する側面が強まり、これを統制するために寛延2年(1749年)に浅間神社の神主と小田原藩の主導で既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らのみが御師として神職待遇を受ける事が認められた。
境内に水が湧きだしており、それが参道入り口には信しげの滝となっている。

かつて滝の整備が行われた際に「信しげ」と書かれた石が発掘されたことから、一説では富士講関係者の名前であると考えられているが、推測の域を出ない。


2013年(平成25年)、富士山がユネスコの世界文化遺産に登録された際には、構成資産の一つとして登録された。合わせて、須走口登山道も別に構成資産として登録された。
今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
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2016年07月01日
奈良県下市町・ 丹生川上神社下社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

丹生川上神社下社は奈良県吉野郡下市町長谷1-1に座する式内社に比定される旧官幣大社の神社である。

本殿は三間社流造で、棟に千木・鰹木を置く。文久3年の天誅組討伐の兵火に罹ったために、明治18年(1885年)に修築されたもの。本殿から屋根を架した70段あまりの木階を下った場所に建つ拝殿は、正面5間側面2間の入母屋造平入で、同じく天誅組事件で灰燼に帰したため、明治34年になって復建された。なお、社殿はいずれも近年の葺替えで銅板葺とされた。
水の神らしく境内に井戸

上古の由緒は不詳で、土地の古老の伝えに、丹生社の鳥居が洪水によって流されてきたので、それを拾って神体として祀ったのが創祀であるというが、当神社背後の丹生山山頂に、祭祀遺跡と思しき矩形の石群があること、また、社前を流れる丹生川流域には丹生神社が点在すること、かつては付近に、御酒井・五色井・吹分井・御食井・祈願井・御手洗井・罔象女井・降臨井・鍛人井といった多くの井戸が湧出していたことなどから、古くからの水神信仰があった可能性もある。
江戸時代前期以降、式内社の所在地についての考証が盛んになると、「式内大社 丹生川上神社」については当時「丹生大明神」と称していた当神社に比定する説が有力となった。その後、朝廷や幕府においてもこれを認めるようになり、宝永7年(1710年)に中御門天皇の勅使が差遣されたのを始め、時には祈雨の奉幣がなされ、また嘉永6年(1853年)に黒船が来航すると、翌7年に孝明天皇が当神社に宣旨を下して国家安泰を祈願し、文久2年(1862年)には攘夷を祈願するなど、二十二社の1社として遇された。
文久3年(1863年)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失した。
明治4年(1871年)に、官幣大社に列したが、「公文所」や「社人」と称する世襲神職(社家)が廃された。
社記によると、その起源は文明年間(1469-87年)に遡ると伝えるが、近世においては橋本・乾・河(川)合・中井・向井・今西の6家(本姓が川上のため「川上六家」と称された)が奉仕してきた。
官制時代に社職を離れたが、子孫の家はその後も「神事係」として当神社に関わっている。
明治6年に、当時の少宮司江藤正澄が、当神社の鎮座地は寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所引)「応禁制大和国丹生川上雨師神社界地事」に記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘して、当時の高龗神社(現上社)を式内丹生川上神社に比定し、翌明治7年には当神社を「口の宮」と称すとともに、高龗神社を「奥の宮」と称してこれを所轄するようになった。その後江藤説が認められて、明治29年(1896年)に当神社を「丹生川上神社下社」、奥の宮を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされた。
産霊石(むすびいし)

古来の性神信仰の名残か。
祭神は闇龗神(くらおかみのかみ)
以前は高龗神であったが、大正4年(1915年) 、現・中社のある東吉野村出身の森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著して、蟻通神社(現丹生川上神社(中社))=丹生川上社説を唱え、これが受け入れられたため、同11年(1922年)10月12日内務省告示で「郷社丹生川上神社、奈良県吉野郡小川村鎮座、祭神罔象女神。右官幣大社丹生川上神社中社ト定メラルル旨被仰出」とされ、上社・下社は中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされ、当神社祭神も高龗神から闇龗神に改められた。
なお、祭神は「丹生大明神」で、丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)の祭神である丹生都比売神のことであるとする説もある。
境内社に八幡神社(応神天皇)・大山祇神社(大山祇命)・ 稲荷神社(稲荷大神)・祖霊社(川上六家の祖霊)
蛙が立ち上がった姿に見えるということで蛙石

瞬時に決断が出来るように、という御利益。
例大祭は6月1日。当日、氏子の各戸から、「人身御供(ひとみごく)」と称される朴の葉で包んだ鯖の姿鮨が神饌として供えられる風習がある。
太鼓(古)踊り - 祈止雨祈願がかなった人々が、喜びのあまり神前に集まって踊ったことに起源を持つと伝える神事芸能があり、平成13年に県の無形民俗文化財に指定された。
今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

丹生川上神社下社は奈良県吉野郡下市町長谷1-1に座する式内社に比定される旧官幣大社の神社である。

本殿は三間社流造で、棟に千木・鰹木を置く。文久3年の天誅組討伐の兵火に罹ったために、明治18年(1885年)に修築されたもの。本殿から屋根を架した70段あまりの木階を下った場所に建つ拝殿は、正面5間側面2間の入母屋造平入で、同じく天誅組事件で灰燼に帰したため、明治34年になって復建された。なお、社殿はいずれも近年の葺替えで銅板葺とされた。
水の神らしく境内に井戸

上古の由緒は不詳で、土地の古老の伝えに、丹生社の鳥居が洪水によって流されてきたので、それを拾って神体として祀ったのが創祀であるというが、当神社背後の丹生山山頂に、祭祀遺跡と思しき矩形の石群があること、また、社前を流れる丹生川流域には丹生神社が点在すること、かつては付近に、御酒井・五色井・吹分井・御食井・祈願井・御手洗井・罔象女井・降臨井・鍛人井といった多くの井戸が湧出していたことなどから、古くからの水神信仰があった可能性もある。
江戸時代前期以降、式内社の所在地についての考証が盛んになると、「式内大社 丹生川上神社」については当時「丹生大明神」と称していた当神社に比定する説が有力となった。その後、朝廷や幕府においてもこれを認めるようになり、宝永7年(1710年)に中御門天皇の勅使が差遣されたのを始め、時には祈雨の奉幣がなされ、また嘉永6年(1853年)に黒船が来航すると、翌7年に孝明天皇が当神社に宣旨を下して国家安泰を祈願し、文久2年(1862年)には攘夷を祈願するなど、二十二社の1社として遇された。
文久3年(1863年)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失した。
明治4年(1871年)に、官幣大社に列したが、「公文所」や「社人」と称する世襲神職(社家)が廃された。
社記によると、その起源は文明年間(1469-87年)に遡ると伝えるが、近世においては橋本・乾・河(川)合・中井・向井・今西の6家(本姓が川上のため「川上六家」と称された)が奉仕してきた。
官制時代に社職を離れたが、子孫の家はその後も「神事係」として当神社に関わっている。
明治6年に、当時の少宮司江藤正澄が、当神社の鎮座地は寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所引)「応禁制大和国丹生川上雨師神社界地事」に記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘して、当時の高龗神社(現上社)を式内丹生川上神社に比定し、翌明治7年には当神社を「口の宮」と称すとともに、高龗神社を「奥の宮」と称してこれを所轄するようになった。その後江藤説が認められて、明治29年(1896年)に当神社を「丹生川上神社下社」、奥の宮を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされた。
産霊石(むすびいし)

古来の性神信仰の名残か。
祭神は闇龗神(くらおかみのかみ)
以前は高龗神であったが、大正4年(1915年) 、現・中社のある東吉野村出身の森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著して、蟻通神社(現丹生川上神社(中社))=丹生川上社説を唱え、これが受け入れられたため、同11年(1922年)10月12日内務省告示で「郷社丹生川上神社、奈良県吉野郡小川村鎮座、祭神罔象女神。右官幣大社丹生川上神社中社ト定メラルル旨被仰出」とされ、上社・下社は中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされ、当神社祭神も高龗神から闇龗神に改められた。
なお、祭神は「丹生大明神」で、丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)の祭神である丹生都比売神のことであるとする説もある。
境内社に八幡神社(応神天皇)・大山祇神社(大山祇命)・ 稲荷神社(稲荷大神)・祖霊社(川上六家の祖霊)
蛙が立ち上がった姿に見えるということで蛙石

瞬時に決断が出来るように、という御利益。
例大祭は6月1日。当日、氏子の各戸から、「人身御供(ひとみごく)」と称される朴の葉で包んだ鯖の姿鮨が神饌として供えられる風習がある。
太鼓(古)踊り - 祈止雨祈願がかなった人々が、喜びのあまり神前に集まって踊ったことに起源を持つと伝える神事芸能があり、平成13年に県の無形民俗文化財に指定された。
今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
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2016年06月01日
東京都神津島村・阿波命神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

阿波命神社は東京都神津島村長浜1に坐する神社で、旧社格は府社である。式内社であり名神大社とされた。

祭神は阿波咩命 (あわのめのみこと、阿波命/阿波比咩命)。
阿波咩命は神津島の開拓神であると伝えられる。『続日本後紀』によると、三嶋神(伊豆国一宮の三嶋大社祭神)の本后であるといい、物忌奈命(物忌奈命神社祭神)はその御子神であるという。
鎌倉時代末期の成立とされる『三宅記』では、三嶋神が神集島(神津島)に置いた「長浜の御前」から長子「たゝない王子(たたない王子)」、次子「たふたい王子」が生まれたと記す。これら三神の社はそれぞれ阿波命神社、物忌奈命神社、日向神社に比定される。
そのほか、「阿波」の神名から古代氏族の忌部氏が、阿波国から安房国に東遷する際、当地に逗留したことに由来するという伝承もある。
平田篤胤は『古史伝』伊古奈比咩命神社項において、阿波咩命を天津羽羽神(あまつはばのかみ、天石門別神の娘神)に比定している。
神社としての創建は不詳。国史の初見は『続日本後紀』の承和7年(840年)における記事で、上津島(神津島)に坐す神は阿波神は「三嶋大社本后」である旨、物忌奈乃命はその御子神である旨、そしてこの神々のため神宮四院が新たに造営された旨が記載されている。同記事では、続いて神院の様子が描写される。
そして、去る承和5年(838年)7月5日夜に神津島で激しい噴火が発生したといい、占いの結果、それは三嶋大社の後后が位階を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。
同記事にある「後后」とは、静岡県下田市の伊古奈比咩命神社(通称・白浜神社)祭神を指すとされており、先の天長9年(832年)には三嶋神・伊古奈比咩命両神を名神に預けるという記事が載っている。
上記の承和7年の記事を受けて、約一ヶ月後に阿波神・物忌奈乃命両神の神階は無位から従五位下に昇った。その後はいずれも物忌奈命とともに、嘉祥3年(850年)に従五位上が授けられたのち、同年には官社に列し、仁寿2年(852年)には正五位下に昇った。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、伊豆国賀茂郡に「阿波神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。伊豆諸島の中で、名神大社は阿波命神社と物忌奈命神社のみである。
中世の『伊豆国神階帳』では伊豆国田方郡に三嶋神の次に「一品きさきの宮」と記載されているが、これは阿波咩命が三嶋大社に招祭されたことによるとされる。
近世には、当社は「長浜明神」「長浜御前」と称された。
神社の社殿の様子などが「続日本後紀」の記述と一致している、古代神社の立地を今に伝える貴重な神社であるという。

神社の前には五色浜という海岸がある。この浜には阿波命の伝説が伝わっている。
阿波命は事代主の来島を祈り、この地で宴を開いて歓迎し、事代主が島を離れる時は、この地で水平線で見えなくなるまで別れを惜しんだという。
その事から、この長浜海岸には白砂と赤や黄色など色とりどりの玉石があり、別名「五色浜」とも言われるが、石を持ち去ると祟りがあるという。
今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
より大きな地図で
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

阿波命神社は東京都神津島村長浜1に坐する神社で、旧社格は府社である。式内社であり名神大社とされた。

祭神は阿波咩命 (あわのめのみこと、阿波命/阿波比咩命)。
阿波咩命は神津島の開拓神であると伝えられる。『続日本後紀』によると、三嶋神(伊豆国一宮の三嶋大社祭神)の本后であるといい、物忌奈命(物忌奈命神社祭神)はその御子神であるという。
鎌倉時代末期の成立とされる『三宅記』では、三嶋神が神集島(神津島)に置いた「長浜の御前」から長子「たゝない王子(たたない王子)」、次子「たふたい王子」が生まれたと記す。これら三神の社はそれぞれ阿波命神社、物忌奈命神社、日向神社に比定される。
そのほか、「阿波」の神名から古代氏族の忌部氏が、阿波国から安房国に東遷する際、当地に逗留したことに由来するという伝承もある。
平田篤胤は『古史伝』伊古奈比咩命神社項において、阿波咩命を天津羽羽神(あまつはばのかみ、天石門別神の娘神)に比定している。
神社としての創建は不詳。国史の初見は『続日本後紀』の承和7年(840年)における記事で、上津島(神津島)に坐す神は阿波神は「三嶋大社本后」である旨、物忌奈乃命はその御子神である旨、そしてこの神々のため神宮四院が新たに造営された旨が記載されている。同記事では、続いて神院の様子が描写される。
そして、去る承和5年(838年)7月5日夜に神津島で激しい噴火が発生したといい、占いの結果、それは三嶋大社の後后が位階を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。
同記事にある「後后」とは、静岡県下田市の伊古奈比咩命神社(通称・白浜神社)祭神を指すとされており、先の天長9年(832年)には三嶋神・伊古奈比咩命両神を名神に預けるという記事が載っている。
上記の承和7年の記事を受けて、約一ヶ月後に阿波神・物忌奈乃命両神の神階は無位から従五位下に昇った。その後はいずれも物忌奈命とともに、嘉祥3年(850年)に従五位上が授けられたのち、同年には官社に列し、仁寿2年(852年)には正五位下に昇った。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、伊豆国賀茂郡に「阿波神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。伊豆諸島の中で、名神大社は阿波命神社と物忌奈命神社のみである。
中世の『伊豆国神階帳』では伊豆国田方郡に三嶋神の次に「一品きさきの宮」と記載されているが、これは阿波咩命が三嶋大社に招祭されたことによるとされる。
近世には、当社は「長浜明神」「長浜御前」と称された。
神社の社殿の様子などが「続日本後紀」の記述と一致している、古代神社の立地を今に伝える貴重な神社であるという。

神社の前には五色浜という海岸がある。この浜には阿波命の伝説が伝わっている。
阿波命は事代主の来島を祈り、この地で宴を開いて歓迎し、事代主が島を離れる時は、この地で水平線で見えなくなるまで別れを惜しんだという。
その事から、この長浜海岸には白砂と赤や黄色など色とりどりの玉石があり、別名「五色浜」とも言われるが、石を持ち去ると祟りがあるという。
今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
より大きな地図で
2016年05月01日
富山県魚津市・魚津神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

魚津神社は富山県魚津市中央通り1-3-28に坐する神社で、旧社格は郷社である。

祭神は天照皇大神、建御名方命、菅原大神、素盞嗚尊、倉稻魂命、彦火火出見尊、大市比賣命

例祭は毎年6月4、5、6日の魚津神社春季例大祭。
6月4、5日の朝から、神職が乗る神馬と神輿が氏子町内を巡り、御祈祷を希望する氏子宅には、玄関先にお米、お神酒が祀られていて、神様への感謝と家内安全を祈願し祝詞が詠まれます。かつては魚津神社が馬を所有し御神輿巡幸に使用していました。
5日は、午後5時から魚津神社拝殿にて例大祭式典が行われます。
魚津神社のある中央通り商店街と県道(通称22m道路)の一部が歩行者天国になり、県東部一の規模を誇る露店の数である。

魚津神社は、昭和31年9月10日に発生した魚津大火により、金屋町鎮座の「稲荷社」、村木町鎮座の「火之宮社」、金浦町鎮座の「杵築社」、新金屋町鎮座の「市姫社」が火災にあい、救出された御神体が神明宮に合併合祀されました。現在の神紋「五つ巴紋(ともえもん)」は、再建により五社を合併したことを表しており、魚津神社独自もの。
神名宮の創建は大宝2年(702年)と、魚津の発祥とほぼ時を同じくする。当時社号を「日栖宮(ひすのみや)」としていた。
天文年間(1532年~1555年)、越後の長尾氏(のちの上杉謙信)が魚津を攻めた際、戦火にあい廃社となりましたが、天正年間(1573年~1592年)に、魚津城主の河田豊前守(かわたぶぜんのかみ)が社殿を再建しました。河田氏が没落後には加賀藩主、前田家家臣の青山渡守(さどのかみ)が、魚津城代となった時代に社殿を増築しました。
愛宕神社

魚津では昔から防火を祈願し、魚津神社、八幡宮、諏訪神社が分担して、5~6mの大きな御幣を立てて祈祷を行い、境内で焼納する火祭りが行われている。この行事は愛宕神社の神事であったが、愛宕神社は昭和四十一年、魚津神社の境内社となっている。

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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
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魚津神社は富山県魚津市中央通り1-3-28に坐する神社で、旧社格は郷社である。

祭神は天照皇大神、建御名方命、菅原大神、素盞嗚尊、倉稻魂命、彦火火出見尊、大市比賣命

例祭は毎年6月4、5、6日の魚津神社春季例大祭。
6月4、5日の朝から、神職が乗る神馬と神輿が氏子町内を巡り、御祈祷を希望する氏子宅には、玄関先にお米、お神酒が祀られていて、神様への感謝と家内安全を祈願し祝詞が詠まれます。かつては魚津神社が馬を所有し御神輿巡幸に使用していました。
5日は、午後5時から魚津神社拝殿にて例大祭式典が行われます。
魚津神社のある中央通り商店街と県道(通称22m道路)の一部が歩行者天国になり、県東部一の規模を誇る露店の数である。

魚津神社は、昭和31年9月10日に発生した魚津大火により、金屋町鎮座の「稲荷社」、村木町鎮座の「火之宮社」、金浦町鎮座の「杵築社」、新金屋町鎮座の「市姫社」が火災にあい、救出された御神体が神明宮に合併合祀されました。現在の神紋「五つ巴紋(ともえもん)」は、再建により五社を合併したことを表しており、魚津神社独自もの。
神名宮の創建は大宝2年(702年)と、魚津の発祥とほぼ時を同じくする。当時社号を「日栖宮(ひすのみや)」としていた。
天文年間(1532年~1555年)、越後の長尾氏(のちの上杉謙信)が魚津を攻めた際、戦火にあい廃社となりましたが、天正年間(1573年~1592年)に、魚津城主の河田豊前守(かわたぶぜんのかみ)が社殿を再建しました。河田氏が没落後には加賀藩主、前田家家臣の青山渡守(さどのかみ)が、魚津城代となった時代に社殿を増築しました。
愛宕神社

魚津では昔から防火を祈願し、魚津神社、八幡宮、諏訪神社が分担して、5~6mの大きな御幣を立てて祈祷を行い、境内で焼納する火祭りが行われている。この行事は愛宕神社の神事であったが、愛宕神社は昭和四十一年、魚津神社の境内社となっている。

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2016年04月01日
神奈川県大磯町・高来神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

高来神社は神奈川県中郡大磯町高麗2丁目9-47に坐する神社で、旧社格は郷社である。

祭神は神皇産霊尊、天津彦穂邇々伎尊、応神天皇、神功皇后。

例祭は春季大祭(山神輿・現在の高麗山の麓にある里宮から山頂の上宮へと神輿を以って神霊を遷す)が4月17日(上宮渡御)、4月19日(本社還御)。夏季大祭(西暦偶数年は「御船祭」を併催する)は7月18日に近い日曜日。


高麗神社とも呼ばれる。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。
中世の戦乱等により書物が焼失したため起源は明らかでないが、神武天皇の時代の創建とする記録があるという。

江戸時代まで高麗寺という寺が山中にあり、現在の高来神社も高麗神社として寺内にあった。高麗寺は高句麗から渡来した高麗若光を祀った古い寺院と言われるが、室町時代には関東の戦乱である永享の乱や、後北条氏が狼煙台としたり、後北条氏に対して戦争を仕掛けた上杉謙信によって陣が構えられたりするなど、数度の戦火に見舞われ、廃寺寸前にまで追い込まれる。

しかし、江戸時代に徳川家が権現信仰のあるこの寺を上野寛永寺の末寺とし東照宮を置いたことから隆盛を取り戻した。

しかし明治時代に入るとこのことが仇となり、徳川色を消し去りたい明治政府によってこの寺は廃寺とされ、廃仏毀釈で山内の堂塔は悉く破壊され、高麗神社だけが残った。
高麗神社は明治時代に高来神社(たかくじんじゃ)と改名し現在に至っている。

神社には良く見られる力石





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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

高来神社は神奈川県中郡大磯町高麗2丁目9-47に坐する神社で、旧社格は郷社である。

祭神は神皇産霊尊、天津彦穂邇々伎尊、応神天皇、神功皇后。

例祭は春季大祭(山神輿・現在の高麗山の麓にある里宮から山頂の上宮へと神輿を以って神霊を遷す)が4月17日(上宮渡御)、4月19日(本社還御)。夏季大祭(西暦偶数年は「御船祭」を併催する)は7月18日に近い日曜日。


高麗神社とも呼ばれる。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。
中世の戦乱等により書物が焼失したため起源は明らかでないが、神武天皇の時代の創建とする記録があるという。

江戸時代まで高麗寺という寺が山中にあり、現在の高来神社も高麗神社として寺内にあった。高麗寺は高句麗から渡来した高麗若光を祀った古い寺院と言われるが、室町時代には関東の戦乱である永享の乱や、後北条氏が狼煙台としたり、後北条氏に対して戦争を仕掛けた上杉謙信によって陣が構えられたりするなど、数度の戦火に見舞われ、廃寺寸前にまで追い込まれる。

しかし、江戸時代に徳川家が権現信仰のあるこの寺を上野寛永寺の末寺とし東照宮を置いたことから隆盛を取り戻した。

しかし明治時代に入るとこのことが仇となり、徳川色を消し去りたい明治政府によってこの寺は廃寺とされ、廃仏毀釈で山内の堂塔は悉く破壊され、高麗神社だけが残った。
高麗神社は明治時代に高来神社(たかくじんじゃ)と改名し現在に至っている。

神社には良く見られる力石





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2016年02月01日
新潟県妙高市・関山神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

関山神社は新潟県妙高市関山4804に座する神社で、旧社格は県社の神社で、式内社・大神社に比定される論社の一つである。

祭神は国常立尊、伊弉册尊、素盞鳴尊。
国常立尊を祀る神社は珍しい。

創建は社伝によると、元明天皇の御代、和銅年間に裸形上人の開基によるという。
裸形上人というと仁徳天皇の時代に天竺から熊野へと漂着した人物であるが、年代が違う。「裸形」というのが何らかの形容詞になったのか。
現在は関山神社であるが、僧侶によって開かれるなど、妙高山を霊山と仰ぐ修験道の道場として繁栄した。
社殿




この神社には大戦中の重巡・妙高の艦霊が祀られている。社殿内には妙高についての解説があった。
砲弾の記念碑もあるそうだが、それは雪に埋もれているようで見えない。
例祭は7月の第3土日。1300余年の伝統を誇る「火祭り」が催され、参拝客でにぎわう。
山伏の棒術や舞が行われるのは、関山が織田信長に攻められた教訓から、自衛のために山伏が身につけた武術の名残である。奉納相撲なども行われる。
池も半分凍っています。

雪の重なりが層になって見える。

手水舎も雪に埋まってます



境内には阿弥陀三尊像や 25体の石仏群、釈迦の仏足石などがあるとの事。
だが、訪ねた時期は雪で境内の殆どが覆われていて気付かなかった・・・。
中でも国の重要文化財に指定された銅造菩薩立像は、日本の仏教美術の歴史を紐解くうえで貴重な仏像とのことである。
社殿から参道を望む



鬱蒼とした杉の木から、雪が陽に照らされて落ちてくる雫がキラキラと輝き、素晴らしい参道となっていた。

明治の神仏分離令により別当寺は廃され、社号を関山神社と改称し、県社に列している。
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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
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関山神社は新潟県妙高市関山4804に座する神社で、旧社格は県社の神社で、式内社・大神社に比定される論社の一つである。

祭神は国常立尊、伊弉册尊、素盞鳴尊。
国常立尊を祀る神社は珍しい。

創建は社伝によると、元明天皇の御代、和銅年間に裸形上人の開基によるという。
裸形上人というと仁徳天皇の時代に天竺から熊野へと漂着した人物であるが、年代が違う。「裸形」というのが何らかの形容詞になったのか。
現在は関山神社であるが、僧侶によって開かれるなど、妙高山を霊山と仰ぐ修験道の道場として繁栄した。
社殿




この神社には大戦中の重巡・妙高の艦霊が祀られている。社殿内には妙高についての解説があった。
砲弾の記念碑もあるそうだが、それは雪に埋もれているようで見えない。
例祭は7月の第3土日。1300余年の伝統を誇る「火祭り」が催され、参拝客でにぎわう。
山伏の棒術や舞が行われるのは、関山が織田信長に攻められた教訓から、自衛のために山伏が身につけた武術の名残である。奉納相撲なども行われる。
池も半分凍っています。

雪の重なりが層になって見える。

手水舎も雪に埋まってます



境内には阿弥陀三尊像や 25体の石仏群、釈迦の仏足石などがあるとの事。
だが、訪ねた時期は雪で境内の殆どが覆われていて気付かなかった・・・。
中でも国の重要文化財に指定された銅造菩薩立像は、日本の仏教美術の歴史を紐解くうえで貴重な仏像とのことである。
社殿から参道を望む



鬱蒼とした杉の木から、雪が陽に照らされて落ちてくる雫がキラキラと輝き、素晴らしい参道となっていた。

明治の神仏分離令により別当寺は廃され、社号を関山神社と改称し、県社に列している。
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2016年01月01日
京都市左京区・吉田神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

吉田神社は京都市左京区吉田神楽岡町30番地に座する神社で、旧社格は官幣中社の神社である。

祭神は春日神(建御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比売神の総称)
貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。

創建は不詳。

鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。
室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として文明16年(1484年)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。
近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。寛永5年(1665年)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。
例祭は4月18日

山蔭神社

藤原山蔭を祭る。藤原山蔭は四条流庖丁道の創始者とされ、包丁・料理の祖神として全国の料理関係者により昭和32年に創建。
菓祖神社

田道間守命と林浄因を祭る。林浄因は初めて餡入りの饅頭を作ったとして、菓子の祖先として京都の菓子業界により社が作られた。


さざれ石

若宮社

神楽岡社

吉田神社は式外社であるが、この神楽岡社は式内社である。吉田神社成立以前の地主神で、雷除けの神として尊崇を集める。
祖霊社


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吉田神社は京都市左京区吉田神楽岡町30番地に座する神社で、旧社格は官幣中社の神社である。

祭神は春日神(建御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比売神の総称)
貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。

創建は不詳。

鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。
室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として文明16年(1484年)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。
近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。寛永5年(1665年)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。
例祭は4月18日

山蔭神社

藤原山蔭を祭る。藤原山蔭は四条流庖丁道の創始者とされ、包丁・料理の祖神として全国の料理関係者により昭和32年に創建。
菓祖神社

田道間守命と林浄因を祭る。林浄因は初めて餡入りの饅頭を作ったとして、菓子の祖先として京都の菓子業界により社が作られた。


さざれ石

若宮社

神楽岡社

吉田神社は式外社であるが、この神楽岡社は式内社である。吉田神社成立以前の地主神で、雷除けの神として尊崇を集める。
祖霊社


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2015年10月01日
東京都神津島村・物忌奈命神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

物忌奈命神社は東京都神津島村41に座する神社で延喜式内社・名神大社で、旧社格は府社の神社である。
隋神門

祭神は物忌奈命
この神社は出雲神話の大国主命の御子・事代主命が出雲の国譲りの後、出雲を出て伊豆諸島にやって来て島々を拓き、神津島の女神・阿波咩命(あわのめのみこと)との御子として生まれたのが物忌奈命である。

創建は不詳。
『続日本後紀』の承和5年(838年)7月5日夜に、神津島で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋大社の後后(下田市の伊古奈比咩命神社祭神か)が位階を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。
これを受けて、阿波神・物忌奈乃命両神の神階が無位から従五位下に昇った。その後は正五位下に昇った。

本殿は覆堂の形式で、神体を祀る中宮を内蔵している。この中宮は旧本殿で、文化7年(1810年)の造営、高さ5メートル余りの入母屋造で、様式・彫刻等各所に優れた技法が見られる。
覆殿(本殿)・拝殿も古く貴重なものであり、これらは併せて神津島村指定有形文化財に指定されている。





境内も掃き清められていて、式内社の風格があります。

しめ縄の張ってある木の洞

時折見かける奉納された神社内の砲弾

例祭は8月1日・2日に行われ、8月2日の祭典後には、境内においてかつお釣り神事が行われる。神事では境内を漁場に見立て、青竹を組んで作った舟形に漁夫に扮した若者が乗り込み、出船、カツオ(鰹)釣り、帰港、入札に至るまでの一連の模様が模擬的に再現される。国の重要無形民俗文化財に指定されている。

観光客が多い島だからでしょうか





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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

物忌奈命神社は東京都神津島村41に座する神社で延喜式内社・名神大社で、旧社格は府社の神社である。
隋神門

祭神は物忌奈命
この神社は出雲神話の大国主命の御子・事代主命が出雲の国譲りの後、出雲を出て伊豆諸島にやって来て島々を拓き、神津島の女神・阿波咩命(あわのめのみこと)との御子として生まれたのが物忌奈命である。

創建は不詳。
『続日本後紀』の承和5年(838年)7月5日夜に、神津島で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋大社の後后(下田市の伊古奈比咩命神社祭神か)が位階を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。
これを受けて、阿波神・物忌奈乃命両神の神階が無位から従五位下に昇った。その後は正五位下に昇った。

本殿は覆堂の形式で、神体を祀る中宮を内蔵している。この中宮は旧本殿で、文化7年(1810年)の造営、高さ5メートル余りの入母屋造で、様式・彫刻等各所に優れた技法が見られる。
覆殿(本殿)・拝殿も古く貴重なものであり、これらは併せて神津島村指定有形文化財に指定されている。





境内も掃き清められていて、式内社の風格があります。

しめ縄の張ってある木の洞

時折見かける奉納された神社内の砲弾

例祭は8月1日・2日に行われ、8月2日の祭典後には、境内においてかつお釣り神事が行われる。神事では境内を漁場に見立て、青竹を組んで作った舟形に漁夫に扮した若者が乗り込み、出船、カツオ(鰹)釣り、帰港、入札に至るまでの一連の模様が模擬的に再現される。国の重要無形民俗文化財に指定されている。

観光客が多い島だからでしょうか





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2015年07月01日
石川県羽咋市・気多大社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

気多大社は石川県羽咋市寺家町ク1に座する能登国一宮、
旧国幣大社の神社である。

能登半島の付け根、羽咋市北方に日本海に面して鎮座する。
祭神は大己貴命
第8代孝元天皇の御代に、祭神の大己貴命が出雲から三百余柱の神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという。国土を開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったとされる。
古くから北陸の大社として知られ、中世・近世には歴代の領主からも手厚い保護を受けた。

神門は天正12年(1584年))の造営という。
例大祭は4月3日

本殿など5棟の社殿が国の重要文化財に指定されている。


境内裏手には「入らずの森」なる原生林の社叢が広がっている。社叢内は立ち入りが禁止され、一般の参拝はできないが奥宮が安置されている。
俗に宮司も立ち入りが出来ない、と言われるが、昭和天皇が植物研究に立ち入った事がある。
国の天然記念物に指定されている。


縁結びに非常に力を入れている様で、縁結び専用祈願所「気麗(きれい)むすびどころ」が設置され、各種メディアに取り上げられた雑誌などを置いてあった。実際に若い女性の参拝客も多く見られた。
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2015年06月01日
新潟県上越市・雁田神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

雁田神社は新潟県上越市名立区折居735 に座する神社である。

享保3(1718)年、近隣の百姓が畑を耕していると「陰・陽」を象った石が出土した。珍しい石、と持ち帰り、庭石にしたところ家族が次々と病いに倒れた。
子の代になった文政2(1819)年、枕元に貴人が現れ、「敬い祀るなら『産霊』として願い事も叶える」と告げたため、祭り直したのがこの社の始まりであるという。
祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命?

例大祭は不明


社殿裏にこのような所謂「陰陽石」が沢山あり、この社の由来となった陰陽石もあるのでしょうか。
現在は出産、安産、婦人病の神様として多くの参拝者が訪れる。
新潟県内には、神社の境内社として雁田神社を勧請している所も数カ所ある。
長野市にも蚊里田(かりた)八幡宮という神社がある。
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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
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雁田神社は新潟県上越市名立区折居735 に座する神社である。

享保3(1718)年、近隣の百姓が畑を耕していると「陰・陽」を象った石が出土した。珍しい石、と持ち帰り、庭石にしたところ家族が次々と病いに倒れた。
子の代になった文政2(1819)年、枕元に貴人が現れ、「敬い祀るなら『産霊』として願い事も叶える」と告げたため、祭り直したのがこの社の始まりであるという。
祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命?

例大祭は不明


社殿裏にこのような所謂「陰陽石」が沢山あり、この社の由来となった陰陽石もあるのでしょうか。
現在は出産、安産、婦人病の神様として多くの参拝者が訪れる。
新潟県内には、神社の境内社として雁田神社を勧請している所も数カ所ある。
長野市にも蚊里田(かりた)八幡宮という神社がある。
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2015年05月01日
石川県能登町・酒垂神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

酒垂神社は石川県能登町字宇出津ウ141に座する神社で、旧社格は郷社である。

祭神は大山祇命 倉稲魂命 応神天皇 神功皇后 菅原大神 稲背脛命

伝承によれば、この神はアイの風に酒樽に乗って漂着したと伝えられていることから酒垂神社と呼ばれる。アイの風とは地元では北東方向からの風を言い、春先に特徴的であるという。春祭りには往時をしのんで必ずアイの風が吹くのだという。


漂着地点に鳥居が建てられていたと言われているが、海の埋立てとともに移設され今は本来の場所ではない。しかし、今でも「御旅所」と呼ばれ、神事には重要な役割をもち、漂着場所から旧社殿地(現社務所)までの地域を地元の人々は 聖地としていたという。


平安時代の初期、仁明天皇の御代に創建したと社伝は伝える。

例大祭は4月第3土・日曜日。
宇出津曳山祭りとして、人形が飾られた2台の曳山が宇出津の町を曳きまわり五穀豊穣を祈願する春祭りである。
高さ6m、幅8mの巨大な曳山が、「角廻しの木遣り」に合わせて見事に廻るさまは圧巻。
境内からの景色

今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
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2015年04月01日
富山県滑川市・加積雪嶋神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

加積雪嶋(かづみゆきしま)神社は富山県滑川市加島町2050 に座する神社で、旧社格は郷社である。
社殿は東を向いているのと、積雪防止のためらしく覆われている。

祭神は大山咋命。 配祀に大己貴命
境内社の薬神神社

脇には売薬姿の先人像の銅像のモニュメントがある
例大祭は5月21日。

国司として越中に赴任した大友家持もたびたび当社に参詣し、源義経が奥州へ下る時に武運を祈願していたという古社である。
江戸時代には前田家の崇敬も篤く、たびたび寄進を受けた。



神社の東側に立っている石碑。
案内板によると、立山・大岩道しるべと呼ばれるもので北陸道から分岐して立山へ向かう道案内らしい。
立山への信仰登山の歴史を物語るもので、滑川市の文化財になっている。
今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

加積雪嶋(かづみゆきしま)神社は富山県滑川市加島町2050 に座する神社で、旧社格は郷社である。
社殿は東を向いているのと、積雪防止のためらしく覆われている。

祭神は大山咋命。 配祀に大己貴命
境内社の薬神神社

脇には売薬姿の先人像の銅像のモニュメントがある
例大祭は5月21日。

国司として越中に赴任した大友家持もたびたび当社に参詣し、源義経が奥州へ下る時に武運を祈願していたという古社である。
江戸時代には前田家の崇敬も篤く、たびたび寄進を受けた。



神社の東側に立っている石碑。
案内板によると、立山・大岩道しるべと呼ばれるもので北陸道から分岐して立山へ向かう道案内らしい。
立山への信仰登山の歴史を物語るもので、滑川市の文化財になっている。
今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
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2015年03月01日
富山県朝日町・脇子八幡宮
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

脇子八幡宮は富山県下新川郡朝日町横尾966に座する神社で、旧社格は郷社である。
(昭和21年に県社昇格が内定していたが終戦となった。その後、正式には県社となっていないのかもしれないが、『富山県神社誌』には旧県社と記されている。)

祭神は応神天皇、豊城入彦命、事代主神、北陸宮

例大祭は7月1日。

弁慶の足跡

参道の階段左脇に足跡の形の窪みのある石。案内では弁慶が黒部山を一跨ぎにして、この石を踏みつけたとある。

社伝によると、大宝二年(702)、高向朝臣大足が当国へ下向し、越中・越後の国境鎮護の神として、城山(脇子山、八幡山)に鎮祭した古社である。
城山は現在、あさひ城山公園として整備され山上に宮崎城跡があるが、宮崎城は木曽義仲に属する宮崎氏の居城。
治承四年(1180)、以仁王による平家追討の令旨によって挙兵した木曽義仲は、寿永二年(1183)、越中侵攻の際に、城主・宮崎長康と共に、以仁王の死後出家して越前国に逃れていた以仁王の第一王子・北陸宮をこの城に迎え入れて還俗と同時に元服させ、御所を作って越中侵攻の足がかりとし、当社にて平家打倒の戦勝祈願が行なわれた。当時義仲が献進したとされる太刀が、米正作の扇額4面・鏡1面とともに保管されている。
北陸宮は京で没したらしいが、元和二年より当地の石黒家が邸内に祀っていたが文政十年に合祀された。なお、昭和になって分骨された墳墓が城山山上にある。
一説には宮崎村の沖の島に鎮座していたが義仲が北陸王を城に迎えるにあたり、城中に遷座したとも。

天正の頃、前田氏が境関所が設けられて宮崎城は廃城となって、当社は山麓の泊に遷座し、泊の氏神として崇敬され、前田藩は辛酉の年ごとに皇統の長久祈願のため金門鳥敏の祭を執行させ保護した。

今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

脇子八幡宮は富山県下新川郡朝日町横尾966に座する神社で、旧社格は郷社である。
(昭和21年に県社昇格が内定していたが終戦となった。その後、正式には県社となっていないのかもしれないが、『富山県神社誌』には旧県社と記されている。)

祭神は応神天皇、豊城入彦命、事代主神、北陸宮

例大祭は7月1日。

弁慶の足跡

参道の階段左脇に足跡の形の窪みのある石。案内では弁慶が黒部山を一跨ぎにして、この石を踏みつけたとある。

社伝によると、大宝二年(702)、高向朝臣大足が当国へ下向し、越中・越後の国境鎮護の神として、城山(脇子山、八幡山)に鎮祭した古社である。
城山は現在、あさひ城山公園として整備され山上に宮崎城跡があるが、宮崎城は木曽義仲に属する宮崎氏の居城。
治承四年(1180)、以仁王による平家追討の令旨によって挙兵した木曽義仲は、寿永二年(1183)、越中侵攻の際に、城主・宮崎長康と共に、以仁王の死後出家して越前国に逃れていた以仁王の第一王子・北陸宮をこの城に迎え入れて還俗と同時に元服させ、御所を作って越中侵攻の足がかりとし、当社にて平家打倒の戦勝祈願が行なわれた。当時義仲が献進したとされる太刀が、米正作の扇額4面・鏡1面とともに保管されている。
北陸宮は京で没したらしいが、元和二年より当地の石黒家が邸内に祀っていたが文政十年に合祀された。なお、昭和になって分骨された墳墓が城山山上にある。
一説には宮崎村の沖の島に鎮座していたが義仲が北陸王を城に迎えるにあたり、城中に遷座したとも。

天正の頃、前田氏が境関所が設けられて宮崎城は廃城となって、当社は山麓の泊に遷座し、泊の氏神として崇敬され、前田藩は辛酉の年ごとに皇統の長久祈願のため金門鳥敏の祭を執行させ保護した。

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2015年01月01日
福井県敦賀市・気比神宮
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

気比神宮は福井県敦賀市曙町11-68に座する神社。延喜式内社・越前国一宮で、旧社格は官幣大社である。

祭神は伊奢沙別命 (いざさわけのみこと)、帯中日子命(たらしなかひこのみこと・仲哀天皇)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)
『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見え、特に第14代仲哀天皇・神功皇后・第15代応神天皇との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。
敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島・中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。

例大祭は9月4日。主な神事は御誓祭(3月6日)・御名易祭(3月8日)・御田植祭(6月15日)・牛腸祭(6月16日)・総参祭(7月22日)・気比の長祭(9月2日-15日)。


大鳥居を気比神宮交差点から望む

大鳥居

寛永年間に建てられたこの大鳥居は日本三大木造大鳥居の一つに数えられ、大戦中の空襲を免れている事もあり国の重要文化財に指定されている。
気比の長命水

大宝2年(西暦702)、氣比神宮の造営中に涌きだしたと伝えられる。


敦賀の地名由来となった角賀(つぬが)神社

崇神天皇の頃、朝鮮半島の任那の王子・都怒我阿羅斯等(つぬが あらしと)が気比の浦に上陸し貢物を奉った。
天皇は気比大神宮の司祭と当国の政治を委ねたという。

大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)

式内社に比定され、古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。
明治9年(1876年)に村社に列したが、明治44年(1911年)に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。
角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。
祭神は大己貴命、合祀に稲荷神・金刀比羅神。例祭は10月10日
本殿向かって左手に鎮座する九社之宮

左から天伊弉奈彦・天伊弉奈姫・天利劔・伊佐々別・擬領・劔・金・林・鏡の9社。
天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の三社は「気比大神之御子」であるという。
気比宮古殿地

境内に隣接する敦賀北小学校校庭には「土公(どこう)」と称される小丘がある。
社伝では、気比大神はこの土公に降臨したという事から、土公は神宮の聖地とされており、周囲には卵形の石が八角形にめぐらされている。
大宝2年(702年)の社殿造営以前は土公を神籬として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、最澄・空海は当地で7日7夜の祈祷を行なったとも伝える。
この土公は聖別されているため、調査が行われておらず詳細は明らかでない。
市指定の天然記念物のユーカリ

常緑樹である事から武運長久を祈って陸軍関係者が昭和11年に植えた。
芭蕉の像


気比神宮の参拝を楽しみにしていた芭蕉は、「月清し 遊行のもてる 砂の上」など一夜に15句詠んだという。
旗掛けの松

南北朝の争乱の延元元年(1336)、北朝方の足利軍に対して、気比神宮宮司・気比氏治が南朝方として神宮の神旗を掲げた松である。
神宮を出て、再び交差点に出ると見掛けたのが御砂持神事の像である

正安3年(1301年)に神宮を参詣した他阿真教が敦賀に滞在した折、神社の周りが泥池のため参拝客が難儀しているのを見て、上人自らが先頭に立ち、僧侶や大勢の人たちと共に、浜から砂を運んで改修を行ったことに因んだ神事。
今日まで、時宗の大本山遊行寺管長が交代したときに、この神事が行われている。
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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

気比神宮は福井県敦賀市曙町11-68に座する神社。延喜式内社・越前国一宮で、旧社格は官幣大社である。

祭神は伊奢沙別命 (いざさわけのみこと)、帯中日子命(たらしなかひこのみこと・仲哀天皇)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)
『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見え、特に第14代仲哀天皇・神功皇后・第15代応神天皇との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。
敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島・中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。

例大祭は9月4日。主な神事は御誓祭(3月6日)・御名易祭(3月8日)・御田植祭(6月15日)・牛腸祭(6月16日)・総参祭(7月22日)・気比の長祭(9月2日-15日)。


大鳥居を気比神宮交差点から望む

大鳥居

寛永年間に建てられたこの大鳥居は日本三大木造大鳥居の一つに数えられ、大戦中の空襲を免れている事もあり国の重要文化財に指定されている。
気比の長命水

大宝2年(西暦702)、氣比神宮の造営中に涌きだしたと伝えられる。


敦賀の地名由来となった角賀(つぬが)神社

崇神天皇の頃、朝鮮半島の任那の王子・都怒我阿羅斯等(つぬが あらしと)が気比の浦に上陸し貢物を奉った。
天皇は気比大神宮の司祭と当国の政治を委ねたという。

大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)

式内社に比定され、古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。
明治9年(1876年)に村社に列したが、明治44年(1911年)に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。
角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。
祭神は大己貴命、合祀に稲荷神・金刀比羅神。例祭は10月10日
本殿向かって左手に鎮座する九社之宮

左から天伊弉奈彦・天伊弉奈姫・天利劔・伊佐々別・擬領・劔・金・林・鏡の9社。
天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の三社は「気比大神之御子」であるという。
気比宮古殿地

境内に隣接する敦賀北小学校校庭には「土公(どこう)」と称される小丘がある。
社伝では、気比大神はこの土公に降臨したという事から、土公は神宮の聖地とされており、周囲には卵形の石が八角形にめぐらされている。
大宝2年(702年)の社殿造営以前は土公を神籬として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、最澄・空海は当地で7日7夜の祈祷を行なったとも伝える。
この土公は聖別されているため、調査が行われておらず詳細は明らかでない。
市指定の天然記念物のユーカリ

常緑樹である事から武運長久を祈って陸軍関係者が昭和11年に植えた。
芭蕉の像


気比神宮の参拝を楽しみにしていた芭蕉は、「月清し 遊行のもてる 砂の上」など一夜に15句詠んだという。
旗掛けの松

南北朝の争乱の延元元年(1336)、北朝方の足利軍に対して、気比神宮宮司・気比氏治が南朝方として神宮の神旗を掲げた松である。
神宮を出て、再び交差点に出ると見掛けたのが御砂持神事の像である

正安3年(1301年)に神宮を参詣した他阿真教が敦賀に滞在した折、神社の周りが泥池のため参拝客が難儀しているのを見て、上人自らが先頭に立ち、僧侶や大勢の人たちと共に、浜から砂を運んで改修を行ったことに因んだ神事。
今日まで、時宗の大本山遊行寺管長が交代したときに、この神事が行われている。
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2014年12月01日
石川県中能登町・天日陰比売神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

天日陰比売神社は石川県鹿島郡中能登町二宮子6に座する神社で、延喜式内社で、旧社格は郷社である。

祭神は屋船久久能智(やかたくくのち)命。相殿に大己貴命、應神天皇など。
屋船久久能智命は草木や建造物の守護神とされている。

例大祭は6月15日。



現地の案内板
「當社は 人皇十代崇神天皇の御宇御鎮座 の官幣社で 二千百余年の歴史をもつ延喜式内社であります また往古より菊御紋を装飾した郷十八カ村の総社氏神でもあり ました
建長四年四月(鎌倉時代)には能登国の二宮 となり 文徳天皇より後圓融天皇まで 九度の神位を受けております。
社殿後山は天日加氣山と云い 大御前峯社は 羽咋鹿島両郡の雨乞所跡で あり 中御前は 崇神天皇の御廟跡で 印色入日子命(垂仁天皇の御子)の御陵墓跡 とも伝えられております。」


鎮座石

気になるが、立札の文字がかすれて読めず。
鳥居の脇に在る楓の木

樹齢600年余りの大木で、幹の太さは2m、枝は20mに拡がり、竜の形をしていることから「龍髭楓(りゅうしゅ)」と言われている。
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神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
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天日陰比売神社は石川県鹿島郡中能登町二宮子6に座する神社で、延喜式内社で、旧社格は郷社である。

祭神は屋船久久能智(やかたくくのち)命。相殿に大己貴命、應神天皇など。
屋船久久能智命は草木や建造物の守護神とされている。

例大祭は6月15日。



現地の案内板
「當社は 人皇十代崇神天皇の御宇御鎮座 の官幣社で 二千百余年の歴史をもつ延喜式内社であります また往古より菊御紋を装飾した郷十八カ村の総社氏神でもあり ました
建長四年四月(鎌倉時代)には能登国の二宮 となり 文徳天皇より後圓融天皇まで 九度の神位を受けております。
社殿後山は天日加氣山と云い 大御前峯社は 羽咋鹿島両郡の雨乞所跡で あり 中御前は 崇神天皇の御廟跡で 印色入日子命(垂仁天皇の御子)の御陵墓跡 とも伝えられております。」


鎮座石

気になるが、立札の文字がかすれて読めず。
鳥居の脇に在る楓の木

樹齢600年余りの大木で、幹の太さは2m、枝は20mに拡がり、竜の形をしていることから「龍髭楓(りゅうしゅ)」と言われている。
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2014年11月01日
石川県珠洲市・須須神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

須須神社は石川県珠洲市三崎町寺家4-2に座する神社で、延喜式神名帳では国幣小社、旧社格は県社である。

崇神天皇の頃、能登半島最東北端の山伏山の頂上に創建され、天平勝宝年間に現在の地に遷座した。
「三崎権現」「須須大明神」と尊崇され、東北鬼門日本海の守護神として、災難除けの御神徳ありと遍く信仰され、らたかな御社である。
奥宮鎮座地の山伏山の海上からの景観は、古代から北海航行の目標、漁だめの森、御神体山として崇拝され、平安中期には海上警戒の設備を置き、烽火が一たび、あがると郡家で受継ぎ国府、そして京の都へ伝達されたと云われている。

祭神は天津日高彦穂瓊瓊杵尊・美穂須須美命・木花咲耶姫命など。

須須神社の宝物殿には、国指定重要文化財の木造男神像や、数々の古文書、義経ゆかりの品々が収蔵されている。中でも「蝉折の笛」は義経が海難を救われたお礼として奉納した宝物の一つ。


例大祭は9月14日。

社叢は神域として保護され原生林をなし、境内約一万坪には、スダジイをはじめ、タブノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ等が混じり、林床にはミヤマシキミの純群落が見られ約250種の植物があり、国の特別史跡名勝天然記念物に指定されている。
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ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

須須神社は石川県珠洲市三崎町寺家4-2に座する神社で、延喜式神名帳では国幣小社、旧社格は県社である。

崇神天皇の頃、能登半島最東北端の山伏山の頂上に創建され、天平勝宝年間に現在の地に遷座した。
「三崎権現」「須須大明神」と尊崇され、東北鬼門日本海の守護神として、災難除けの御神徳ありと遍く信仰され、らたかな御社である。
奥宮鎮座地の山伏山の海上からの景観は、古代から北海航行の目標、漁だめの森、御神体山として崇拝され、平安中期には海上警戒の設備を置き、烽火が一たび、あがると郡家で受継ぎ国府、そして京の都へ伝達されたと云われている。

祭神は天津日高彦穂瓊瓊杵尊・美穂須須美命・木花咲耶姫命など。

須須神社の宝物殿には、国指定重要文化財の木造男神像や、数々の古文書、義経ゆかりの品々が収蔵されている。中でも「蝉折の笛」は義経が海難を救われたお礼として奉納した宝物の一つ。


例大祭は9月14日。

社叢は神域として保護され原生林をなし、境内約一万坪には、スダジイをはじめ、タブノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ等が混じり、林床にはミヤマシキミの純群落が見られ約250種の植物があり、国の特別史跡名勝天然記念物に指定されている。
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2014年10月01日
富山県射水市・櫛田神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

櫛田神社は富山県射水市串田6841に座する神社で、延喜式内社で旧社格は県社ある。

創建は社伝には、仲哀天皇の時代に武内宿禰が勧請して創祀したと伝える。
当地に残る伝承では、近くにあった大きな池に大蛇が棲み、村人を食っていたが、あるとき、娘を食ったときに、その娘が髪に挿していた櫛が大蛇の咽につまって大蛇が死んだので、娘と櫛を祀ったのが当社の始まりであると伝える。


祭神は素盞嗚尊・櫛稲田姫命。
他に武内大臣(武内宿禰)・豊臣大臣(豊臣秀吉)・ 源義将君(斯波義将)・大亜利家(前田利家)などの人物神を配祀する。
神紋は、「剣に櫛抱き」。一本の剣を、櫛が抱いた形。

祭神・武素盞嗚尊を、祭神・櫛稻田姫命が抱き包んだ形だろうか。
例大祭は9月10日、火渡り神事が有名である。
扁額は正力松太郎の筆による

手水舎



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櫛田神社は富山県射水市串田6841に座する神社で、延喜式内社で旧社格は県社ある。

創建は社伝には、仲哀天皇の時代に武内宿禰が勧請して創祀したと伝える。
当地に残る伝承では、近くにあった大きな池に大蛇が棲み、村人を食っていたが、あるとき、娘を食ったときに、その娘が髪に挿していた櫛が大蛇の咽につまって大蛇が死んだので、娘と櫛を祀ったのが当社の始まりであると伝える。


祭神は素盞嗚尊・櫛稲田姫命。
他に武内大臣(武内宿禰)・豊臣大臣(豊臣秀吉)・ 源義将君(斯波義将)・大亜利家(前田利家)などの人物神を配祀する。
神紋は、「剣に櫛抱き」。一本の剣を、櫛が抱いた形。

祭神・武素盞嗚尊を、祭神・櫛稻田姫命が抱き包んだ形だろうか。
例大祭は9月10日、火渡り神事が有名である。
扁額は正力松太郎の筆による

手水舎



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2014年10月01日
富山県射水市・櫛田神社








ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。
櫛田神社は富山県射水市串田6841に座する神社で、延喜式内社である。
創建は第十二代景行天皇の御代。
祭神はみこと)。
例大祭は4月5日
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2014年09月01日
長野県下諏訪町・諏訪大社 下社 秋宮
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

諏訪大社 下社秋宮は長野県諏訪郡下諏訪町5828に座する、官幣大社の神社である。

創建の年代は不明だが、記紀神話に記載される程の日本最古の神社の一つと言われるほど古くから存在する。


祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)。
上社と下社では、奉祀する神職の長が上社では祭神の子孫、下社では皇族の子孫とされ、下社の大祝は、神武天皇の御子、神八井耳命を祖とする。

例大祭は8月1日の御舟祭
2月1日に秋宮から春宮にお遷した御霊代を春宮に戻す。遷座の行列の後に大きな舟に翁媼二体の人形を乗せ数百人の氏子がその舟を曳く。
周辺が温泉地であるのもあり、手水舎も温泉が

宝殿の用材としての奉納とありました。

拝殿脇の摂社

建御名方神を打ち負かした武甕槌命が祀られている鹿島社があるのが興味深い。
他にも母に当たる高志沼河比売神を祀る子安社なども。

幣拝殿


安永10年(1781年)落成。幣殿と拝殿が一体となった二重楼門造りで、左右に片拝殿(重要文化財)が並ぶ。

下社秋宮 一之御柱

さざれ石


金刺盛澄の像

金刺盛澄は下社秋宮の大祝(おおほうり)で弓馬の達人であった。
木曽義仲の挙兵に呼応し北陸路を進軍したが、途中で諏訪大社の例大祭の為に帰国した。
義仲の敗死後、鎌倉に召喚されたが遅参したため、頼朝の怒りをかい処刑される事になった。
其処を梶原景時が庇い、鎌倉一の暴れ馬で流鏑馬を行い、全ての的を射抜けば処刑を免れるという事になった。
盛澄は見事に全ての的を外す事無く射抜き、許されて諏訪に帰国する事になった。
その後、頼朝の護身の役を務めた。
神社境内のすぐ脇は霞ヶ城という城があり、金刺盛澄の弟・手塚光盛が城主を務め、木曽義仲の挙兵には兄と共に参戦していた。
加賀篠原の戦いでは、平家方の斎藤実盛との一騎打ちは武士道の鑑とされ、能「実盛」として伝えられている。
境内脇に展望地があり、諏訪湖を一望

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ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

諏訪大社 下社秋宮は長野県諏訪郡下諏訪町5828に座する、官幣大社の神社である。

創建の年代は不明だが、記紀神話に記載される程の日本最古の神社の一つと言われるほど古くから存在する。


祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)。
上社と下社では、奉祀する神職の長が上社では祭神の子孫、下社では皇族の子孫とされ、下社の大祝は、神武天皇の御子、神八井耳命を祖とする。

例大祭は8月1日の御舟祭
2月1日に秋宮から春宮にお遷した御霊代を春宮に戻す。遷座の行列の後に大きな舟に翁媼二体の人形を乗せ数百人の氏子がその舟を曳く。
周辺が温泉地であるのもあり、手水舎も温泉が

宝殿の用材としての奉納とありました。

拝殿脇の摂社

建御名方神を打ち負かした武甕槌命が祀られている鹿島社があるのが興味深い。
他にも母に当たる高志沼河比売神を祀る子安社なども。

幣拝殿


安永10年(1781年)落成。幣殿と拝殿が一体となった二重楼門造りで、左右に片拝殿(重要文化財)が並ぶ。

下社秋宮 一之御柱

さざれ石


金刺盛澄の像

金刺盛澄は下社秋宮の大祝(おおほうり)で弓馬の達人であった。
木曽義仲の挙兵に呼応し北陸路を進軍したが、途中で諏訪大社の例大祭の為に帰国した。
義仲の敗死後、鎌倉に召喚されたが遅参したため、頼朝の怒りをかい処刑される事になった。
其処を梶原景時が庇い、鎌倉一の暴れ馬で流鏑馬を行い、全ての的を射抜けば処刑を免れるという事になった。
盛澄は見事に全ての的を外す事無く射抜き、許されて諏訪に帰国する事になった。
その後、頼朝の護身の役を務めた。
神社境内のすぐ脇は霞ヶ城という城があり、金刺盛澄の弟・手塚光盛が城主を務め、木曽義仲の挙兵には兄と共に参戦していた。
加賀篠原の戦いでは、平家方の斎藤実盛との一騎打ちは武士道の鑑とされ、能「実盛」として伝えられている。
境内脇に展望地があり、諏訪湖を一望

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