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2011年04月30日
本日「天野芳太郎 失われた時を求めて」しずおかセミカフェにて
本日「天野芳太郎 失われた時を求めて」しずおかセミカフェにて 本日14時より講演致します。
内容は「天野芳太郎 失われた時を求めて」です。

(発掘調査現場での天野)
少年の頃に読んだ冒険小説と拾った石器から、海外へ雄飛する事を望んだ天野。
上京し事業を起こすも、関東大震災にて全てを失う。そこで南米へ渡り事業を起こし成功した天野だったが今度は第二次大戦によって投獄され全てを失う。戦後、再び南米へ渡る途中、乗っていた船が難破し海を漂うも助かり、南米での事業を再び成功させた。
成功した天野は南米の優れた文化を世界に発信すべく、私費を投じて博物館を建設した。
多くの困難にぶつかりながらも、その都度立ち向かう天野芳太郎の生涯を追って行きます。
会費:500円(お茶付き)。
開催場所はコチラ・静岡市両替町2丁目3-6大原ビル2F ネクステージ企画室
ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。
内容は「天野芳太郎 失われた時を求めて」です。

(発掘調査現場での天野)
少年の頃に読んだ冒険小説と拾った石器から、海外へ雄飛する事を望んだ天野。
上京し事業を起こすも、関東大震災にて全てを失う。そこで南米へ渡り事業を起こし成功した天野だったが今度は第二次大戦によって投獄され全てを失う。戦後、再び南米へ渡る途中、乗っていた船が難破し海を漂うも助かり、南米での事業を再び成功させた。
成功した天野は南米の優れた文化を世界に発信すべく、私費を投じて博物館を建設した。
多くの困難にぶつかりながらも、その都度立ち向かう天野芳太郎の生涯を追って行きます。
会費:500円(お茶付き)。
開催場所はコチラ・静岡市両替町2丁目3-6大原ビル2F ネクステージ企画室
セミナーカフェに関してはコチラ
http://www18.ocn.ne.jp/~aradmin/leaves/leaves.html
http://www18.ocn.ne.jp/~aradmin/leaves/leaves.html
申し込みはコチラから。もしくはオーナーメールで直接お願いします。
http://semicafe.eshizuoka.jp/
http://semicafe.eshizuoka.jp/
ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。
2011年04月29日
西に向かう8 完全版 西の三島・茨木界隈
0433起床。

まだ暗い中、雪が舞っているのに驚く。

茨木の溝咋神社に向かい、その後に茨木神社へ。
まだ6時台だが成人式の準備か美容院は大賑わい。
溝咋神社
祀られている三島溝咋媛は伊豆の神社でも祀られている所がある。
北摂津はかつて三島郡という区分だったが、その地名由来でもあるだろう。
茨木神社は10年前にも訪ねた事がある。今日は十日戎で賑わっている。
奉納されているマグロ一本に硬貨が。
完全に明るくなり、空は晴れているのに何処からか雪が舞ってくる。
松屋で朝食。
今回の最大の目的、万博公園へ向かって歩く。
続く…。
2011年04月28日
西に向かう7 完全版 奇妙な冒険

1503神戸駅下車。メリケンパークへ。
と、いうのも昨日友人と飲んでいたバーで「ジョジョ立ちの撮影会をするので見てきてください」と誘われたのだ。こんな風が強くて冷えるなかで居ないだろと思っていたが、一角に「ジョジョの奇妙な冒険」のポーズを取っている集団が。作りこみをみていると面白い。
1650終了後、その一行に誘われたのでジョジョの奇妙な冒険のコンセプトであるバーに行く。


メニューも「ジョジョの奇妙な冒険」にちなんだカクテル。

私は「隠者の紫」を。
フードメニューの「娼婦風スパゲティ」


会話がずーーーとジョジョがらみである。
男性3人、女性2人。当初、コスプレサークルなのかと思っていたが、この日に初めて顔を合わせたのだという。住まいも神戸の人ではなく、周辺から集まってきた人で、たまたま篠山の人が居たので、自分が昼は篠山を多少歩いたと話したら、ネタが通じて面白かった。
このバーがある意味、ソーシャルメディアになっている。
しかし年齢は10歳位若いのか、一番好きなのは第5部だという。私は第2部が好きなので、やや世代が違う事を実感・・・。
そんなで0時まで飲んでてネカフェにつく。
続く・・・。
2011年04月25日
西に向かう6 完全版 西脇市周辺

次発まで1時間弱時間があるので周辺を散策。
駅の中には西脇市の地場産業である播州織の展示。
石上神社参拝。
駅周辺は市街中心部とは離れているが、それでも趣ある建物が点在。
こんな展示案内を発見。
後で知ったのだが、横尾忠則氏の出身地である。
駅へ戻ってみるとこんな列車。
これもまた横尾氏のデザインだそうだ。

眠くなってきたので寝る。
続く…。
2011年04月23日
5月12日講演 「鳥島漂流 沖の大夫たち」富士市にて
5月12日19時より、富士市吉原のカフェ・プレアーテにて講演致します。
内容は「鳥島漂流 沖の大夫たち」です。

江戸時代中期、藩の米を積み遠州新居の港を出航した勇ましい大鹿丸。
彼らは予定通りの航海を経て帰港する途中、大風に吹かれ消息を絶った。
50余日間の漂流の末、彼らが見たのは荒々しい火を噴く山と無数の巨鳥が飛び交う島だった。
世界海難史上、最も長い20年に亘る過酷な漂流生活を彼らはどう生き延び、どうやって島を脱出したのだろうか。
会費は1500円(軽食付き)。
開催場所はコチラ・カフェ・プレアーテにて
申し込みはカフェ・プレアーテへ。もしくはオーナーメールで直接お願いします。
ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。
内容は「鳥島漂流 沖の大夫たち」です。

江戸時代中期、藩の米を積み遠州新居の港を出航した勇ましい大鹿丸。
彼らは予定通りの航海を経て帰港する途中、大風に吹かれ消息を絶った。
50余日間の漂流の末、彼らが見たのは荒々しい火を噴く山と無数の巨鳥が飛び交う島だった。
世界海難史上、最も長い20年に亘る過酷な漂流生活を彼らはどう生き延び、どうやって島を脱出したのだろうか。
会費は1500円(軽食付き)。
開催場所はコチラ・カフェ・プレアーテにて
申し込みはカフェ・プレアーテへ。もしくはオーナーメールで直接お願いします。
ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。
2011年04月22日
numazoo放送局 ふらっとLR 1962年2月26日
先々月のnumazoo放送局 ふらっとLRでは、1962年2月26日に注目しました。
音声は「不尽み逸品堂 音声支店」にて
工場の誘致を促進

箱根新道開通。高規格道路では日本で2番目。

道なのに店開きとはこれいかに。
僻地教育の情熱

何時でもこういう輩は居るものです。

県境を挟んだ合併問題のあおり。

東海道線・鷲津駅近くで脱線事故。

西伊豆でレタス栽培は初耳。しかもライバルは八丈島!

今に始まった話ではないようで。

暴力の町・静岡市

今回の「沼津紙上商店街」
今回は1963年4月23日の沼津に迫ります!
音声は「不尽み逸品堂 音声支店」にて
工場の誘致を促進

箱根新道開通。高規格道路では日本で2番目。

道なのに店開きとはこれいかに。
僻地教育の情熱

何時でもこういう輩は居るものです。

県境を挟んだ合併問題のあおり。

東海道線・鷲津駅近くで脱線事故。

西伊豆でレタス栽培は初耳。しかもライバルは八丈島!

今に始まった話ではないようで。

暴力の町・静岡市

今回の「沼津紙上商店街」
今回は1963年4月23日の沼津に迫ります!
numazooは毎月第4土曜日に沼津中央公園にて開催!
2011年04月21日
西へ向かう5 完全版 日本のへそ
この路線は一時期廃止の予定があったが、阪神大震災で鉄道網が寸断された際、迂回路として重視され存続となった経緯があるが、その役割も忘れられつつあるのかもしれない。

山間から次第に平野が広がってくる。
「日本のへそ」とは、東経135度と北緯35度が交差するという所から、そう称している。
続く…。
2011年04月20日
西に向かう4 完全版 大回り
。
雪が結構残っている。次の列車が来る一時間ほど散策。篠山城まで行ってみたいが、歩くにはかなり遠いようだ。
大きな和菓子屋があったので休憩。

丁寧なサービスが素晴らしい。湧水もあったので汲む。

1132篠山口駅発。
1152谷川駅にて加古川線に乗り換え。


列車発まで駅周辺を散策。
観光案内所では恐竜の化石発掘の話題が多い。

雪が結構残っている。次の列車が来る一時間ほど散策。篠山城まで行ってみたいが、歩くにはかなり遠いようだ。
大きな和菓子屋があったので休憩。
丁寧なサービスが素晴らしい。湧水もあったので汲む。


列車発まで駅周辺を散策。
観光案内所では恐竜の化石発掘の話題が多い。
続く…。
2011年04月18日
5月15日講演「天野芳太郎 失われた時を求めて」teshio
5月15日15時より講演致します。
内容は「天野芳太郎 失われた時を求めて」です。

(発掘調査現場での天野)
少年の頃に読んだ冒険小説と拾った石器から、海外へ雄飛する事を望んだ天野。
上京し事業を起こすも、関東大震災にて全てを失う。そこで南米へ渡り事業を起こし成功した天野だったが今度は第二次大戦によって投獄され全てを失う。戦後、再び南米へ渡る途中、乗っていた船が難破し海を漂うも助かり、南米での事業を再び成功させた。
成功した天野は南米の優れた文化を世界に発信すべく、私費を投じて博物館を建設した。
多くの困難にぶつかりながらも、その都度立ち向かう天野芳太郎の生涯を追って行きます。
会費:500円。
時間:15時から
※飲食店ですので1人1オーダーのご協力をお願い致します。
※お車でお越しの方は2人以上の相乗りで文化センターの駐車場をご利用頂くと、1時間無料になります。
開催場所はコチラ・沼津市民文化センター内のカフェ・teshioにて
申し込みはオーナーメール、もしくは「info★cafe-teshio.com」(★を@に変更してメールを)で直接お願いします。
ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。
内容は「天野芳太郎 失われた時を求めて」です。

(発掘調査現場での天野)
少年の頃に読んだ冒険小説と拾った石器から、海外へ雄飛する事を望んだ天野。
上京し事業を起こすも、関東大震災にて全てを失う。そこで南米へ渡り事業を起こし成功した天野だったが今度は第二次大戦によって投獄され全てを失う。戦後、再び南米へ渡る途中、乗っていた船が難破し海を漂うも助かり、南米での事業を再び成功させた。
成功した天野は南米の優れた文化を世界に発信すべく、私費を投じて博物館を建設した。
多くの困難にぶつかりながらも、その都度立ち向かう天野芳太郎の生涯を追って行きます。
会費:500円。
時間:15時から
※飲食店ですので1人1オーダーのご協力をお願い致します。
※お車でお越しの方は2人以上の相乗りで文化センターの駐車場をご利用頂くと、1時間無料になります。
開催場所はコチラ・沼津市民文化センター内のカフェ・teshioにて
申し込みはオーナーメール、もしくは「info★cafe-teshio.com」(★を@に変更してメールを)で直接お願いします。
ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。
2011年04月17日
「弥太郎と栄一 無限の姿見」 参考文献一覧
4月16日、沼津市・teshioにて岩崎弥太郎と渋沢栄一についてお話させて頂きました。
参加して下さった皆様、ありがとうございました。
講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
書名/著者
渋沢栄一 人間足るを知れ/永川幸樹
渋沢栄一 そしてその一族/渋沢華子
渋沢栄一を歩く/田沢拓也
渋沢家三代/佐野眞一
岩崎弥太郎と三菱四代/河合敦
岩崎弥太郎 不屈の生き方/武田鏡村
岩崎弥太郎伝 /太田尚樹
ご参考にして下さい。
参加して下さった皆様、ありがとうございました。
講座に当たっての参考文献は以下の通りです。
書名/著者
渋沢栄一 人間足るを知れ/永川幸樹
渋沢栄一 そしてその一族/渋沢華子
渋沢栄一を歩く/田沢拓也
渋沢家三代/佐野眞一
岩崎弥太郎と三菱四代/河合敦
岩崎弥太郎 不屈の生き方/武田鏡村
岩崎弥太郎伝 /太田尚樹
ご参考にして下さい。
2011年04月16日
本日講演 「弥太郎と栄一 無限の姿見」teshioにて
本日13時より講演致します。
内容は「弥太郎と栄一 無限の姿見」です。

(岩崎弥太郎と渋沢栄一)
現代にも大きな企業グループとして存在する三菱グループの祖として、一代でその礎を築いた岩崎弥太郎。
多くの企業をはじめ、銀行制度や証券取引所を設立した「近代資本主義の父」こと澁澤栄一。
近代資本主義を目指した二人であったが、そのアプローチは全く異なるものであった。二人の生涯を対比させた形でその目指した物を見つめていきます。
会費:500円。
時間:13時から
※飲食店ですので1人1オーダーのご協力をお願い致します。
※お車でお越しの方は2人以上の相乗りで文化センターの駐車場をご利用頂くと、1時間無料になります。
開催場所はコチラ・沼津市民文化センター内のカフェ・teshioにて
申し込みはオーナーメール、もしくは「info★cafe-teshio.com」(★を@に変更してメールを)で直接お願いします。
ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。
内容は「弥太郎と栄一 無限の姿見」です。

(岩崎弥太郎と渋沢栄一)
現代にも大きな企業グループとして存在する三菱グループの祖として、一代でその礎を築いた岩崎弥太郎。
多くの企業をはじめ、銀行制度や証券取引所を設立した「近代資本主義の父」こと澁澤栄一。
近代資本主義を目指した二人であったが、そのアプローチは全く異なるものであった。二人の生涯を対比させた形でその目指した物を見つめていきます。
会費:500円。
時間:13時から
※飲食店ですので1人1オーダーのご協力をお願い致します。
※お車でお越しの方は2人以上の相乗りで文化センターの駐車場をご利用頂くと、1時間無料になります。
開催場所はコチラ・沼津市民文化センター内のカフェ・teshioにて
申し込みはオーナーメール、もしくは「info★cafe-teshio.com」(★を@に変更してメールを)で直接お願いします。
ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。
2011年04月15日
4月14日
5時半起床。
テントの中の荷物を全て出し、夜露に濡れたテントを乾かしながら朝食を食べる。
6時くらいになると他のテントの人たちも起きだして、撤収作業をしている私を見ると、それまで関わりも無かった人達も「今までお疲れさまでした。」と一人一人が言って来てくれた。そして、各々に「安全に頑張って下さい。」と告げた。
そんな中、以前にお風呂を入れてくれた家の方が、焼きおにぎりを差し入れてくれた。
やがて出発の時間が迫る。
7時20分、バス乗車。駅に向かう。
道路は普段の通勤風景であろう渋滞が続く。災害に遭った土地の全ての機能が止まっている訳ではない。多くの人が「日常」を取り戻すために動いている。
7時48分、常磐線乗車。列車は通勤ラッシュで身動きとれないほどである。こんな時に、大きいザックを背負っている自分はかなり視線が痛い。ボランティアに来た、という事はこんな所では特に言い訳にはならない。
8時14分、仙台駅着。これで帰路につく事が出来る、とここで安堵する。どんな短い距離と言えどもそこそこ大きな余震があれば電車は運転を見合わせて予約したバスに乗れなくなってしまうからだ。
広大なバスターミナルから乗車するバスを探し出すのに20分掛かってしまった。とはいえ、なんとか発見して乗車した。平日ではあるが、バスはほとんどほぼ満席と言える。
9時10分、バス発車。9時25分、東北道・仙台宮城ICに。どうやらETC未登載車である。9時49分、村田IC付近で工事渋滞。
10時43分、安達太良SAにて休憩。派遣されて来ている自衛隊の人たちのヘルメットには「頑張れ!みちのく」というステッカーが。11時05分出発。
11時26分頃、郡山から鏡石PA付近の路面が非常に不安定。宮城県よりも、道路損傷はこの辺りの方が大きいのかもしれない。車窓を見ると家屋の屋根に補修の跡が見られるのも多い。
この辺りから桜が見え始める。そう言えば、桜の時期である事を忘れていたのだ。
12時55分、佐野SAにて休憩。バスを降りると非常に暑い。全てを着こんで来たのである。汗もにじんでくる。昼食として佐野ラーメンが食べたかったが、15分しか余裕が無いため、もう一つのB級グルメ、いもフライで間に合わせる。それとレモン牛乳を購入。13時10分出発。
13時55分、川口IC通過、14時25分新宿着。当初、新宿にて下車する予定であったが、次の東京駅まで乗る事にする。
14時55分東京駅下車。秋葉原にて友人と会う。今回の件などを話す。19時、新宿に移動し別の友人と会う。たまたま入った居酒屋の牛スジ煮込みが美味い。20時半、友人と別れ20時47分、小田急線新宿乗車。またまた非常に込み合ってきた。相模大野でようやく座れた。22時29分小田原まで寝る。
22時52分、東海道線乗車、23時30分三島駅着。迎えに来てくれた友人たちの車に乗車し、ファミレスで閉店時間の26時まで今回の件など話す。
26時30分、帰宅。
テントの中の荷物を全て出し、夜露に濡れたテントを乾かしながら朝食を食べる。
6時くらいになると他のテントの人たちも起きだして、撤収作業をしている私を見ると、それまで関わりも無かった人達も「今までお疲れさまでした。」と一人一人が言って来てくれた。そして、各々に「安全に頑張って下さい。」と告げた。
そんな中、以前にお風呂を入れてくれた家の方が、焼きおにぎりを差し入れてくれた。
やがて出発の時間が迫る。
7時20分、バス乗車。駅に向かう。
道路は普段の通勤風景であろう渋滞が続く。災害に遭った土地の全ての機能が止まっている訳ではない。多くの人が「日常」を取り戻すために動いている。
7時48分、常磐線乗車。列車は通勤ラッシュで身動きとれないほどである。こんな時に、大きいザックを背負っている自分はかなり視線が痛い。ボランティアに来た、という事はこんな所では特に言い訳にはならない。
8時14分、仙台駅着。これで帰路につく事が出来る、とここで安堵する。どんな短い距離と言えどもそこそこ大きな余震があれば電車は運転を見合わせて予約したバスに乗れなくなってしまうからだ。
広大なバスターミナルから乗車するバスを探し出すのに20分掛かってしまった。とはいえ、なんとか発見して乗車した。平日ではあるが、バスはほとんどほぼ満席と言える。
9時10分、バス発車。9時25分、東北道・仙台宮城ICに。どうやらETC未登載車である。9時49分、村田IC付近で工事渋滞。
10時43分、安達太良SAにて休憩。派遣されて来ている自衛隊の人たちのヘルメットには「頑張れ!みちのく」というステッカーが。11時05分出発。
11時26分頃、郡山から鏡石PA付近の路面が非常に不安定。宮城県よりも、道路損傷はこの辺りの方が大きいのかもしれない。車窓を見ると家屋の屋根に補修の跡が見られるのも多い。
この辺りから桜が見え始める。そう言えば、桜の時期である事を忘れていたのだ。
12時55分、佐野SAにて休憩。バスを降りると非常に暑い。全てを着こんで来たのである。汗もにじんでくる。昼食として佐野ラーメンが食べたかったが、15分しか余裕が無いため、もう一つのB級グルメ、いもフライで間に合わせる。それとレモン牛乳を購入。13時10分出発。
13時55分、川口IC通過、14時25分新宿着。当初、新宿にて下車する予定であったが、次の東京駅まで乗る事にする。
14時55分東京駅下車。秋葉原にて友人と会う。今回の件などを話す。19時、新宿に移動し別の友人と会う。たまたま入った居酒屋の牛スジ煮込みが美味い。20時半、友人と別れ20時47分、小田急線新宿乗車。またまた非常に込み合ってきた。相模大野でようやく座れた。22時29分小田原まで寝る。
22時52分、東海道線乗車、23時30分三島駅着。迎えに来てくれた友人たちの車に乗車し、ファミレスで閉店時間の26時まで今回の件など話す。
26時30分、帰宅。
2011年04月14日
4月13日
7時起床。
昨日買った服のお陰か、外の気温は零度だが寒さを然程感じなかった。
朝食を摂り朝の受付へ。
今日の班は男性6人。この時にリーダー決めに手間取る事が多いが、自分の仕事が最後というのもあり、自らリーダーを志願した。
作業に向かったお宅は昨日作業した所の向かいで苗字も同じ。というか、周辺は皆さん同じ名前である。そこで最初の挨拶の後、静岡県に縁ある苗字であるのもあって伺ってみると、先祖は駿河の守護大名であった今川氏に仕えていたが、今川氏の滅亡後にこの地へ落ち延びて土着し、付近の地主として現在に至っているとの事である。
作業は水に浸かった納屋の中の物の搬出。始めは本や使わなくなった古い家電が多かったが、奥に進むに従って、かなりの年代物が姿を現した。
リーダーの役割として「棄てるのを躊躇う様な物」が出てきたら通報の役割があったので、市の文化財担当の人へ連絡する。他の作業や廃棄せずに納屋の側に留め置きをしていると、文化財担当の人が到着。昔の家財道具や古文書などが水濡れしているものの廃棄せずに市で保管という形になった。
中にはこの家での婚儀に使うであろう什器一式がはいった長持ちなど、家の歴史に深い関わりを持った物である。家の人は水に浸かった物は全て棄ててしまえと言うものの、分析次第ではその集落の歴史がまるごと詰まっているであろう資料を守れた事は嬉しかった。
午前の作業を終えて、作業服を片付けた。
明日の撤収の前に岩沼市の事を知っておきたいと市街地を歩く事にする。竹駒神社こそ行ったものの、街の概要は掴んでいなかったからだ。図書館も地震の影響で開館していないのも大きい。
竹駒神社の近くに「二木の松」なる案内板があり、それを見ると、芭蕉や西行なども陸奥に於いての枕詞とした松である。その案内板には「岩沼は奥州街道の宿場として…」とあったので、本陣跡を探す。そこで竹駒神社の正面の道を目安として、道を歩く。その道を一本脇の道に入ると、趣ある土蔵を持つ家を発見。近くに「本陣跡」「脇本陣跡」とある標識を発見。その周辺には商家であったろうと思われる趣ある家屋や蔵が点々としている。目立って多い訳ではないが、少しでも土地の歴史に係われた気がして嬉しかった。
テントに帰り、この場で出来る限りの片付けを行い、余った食品などは周囲のテントの人達に譲った。次第に夕焼けになり、この地で最後の景色を眺めた。この所、曇りが多く、夕焼けを見る機会は無かったのだ。
こうして私のボランティア活動は終わった。
受け入れ側の不備なども感じた点もあるが、やはり志を同じくする者が一処に集まった時の素晴らしい力。普段の生活では知り得ない知識。そして感じる縁。多くの人に感じて貰いたい。
震度6を体験したのもあるが、故郷で起こる事が予測される大地震に備えると共に、災害発生時に如何に復旧の力を呼び込むか、大いなるヒントにしたいと思う。
昨日買った服のお陰か、外の気温は零度だが寒さを然程感じなかった。
朝食を摂り朝の受付へ。
今日の班は男性6人。この時にリーダー決めに手間取る事が多いが、自分の仕事が最後というのもあり、自らリーダーを志願した。
作業に向かったお宅は昨日作業した所の向かいで苗字も同じ。というか、周辺は皆さん同じ名前である。そこで最初の挨拶の後、静岡県に縁ある苗字であるのもあって伺ってみると、先祖は駿河の守護大名であった今川氏に仕えていたが、今川氏の滅亡後にこの地へ落ち延びて土着し、付近の地主として現在に至っているとの事である。
作業は水に浸かった納屋の中の物の搬出。始めは本や使わなくなった古い家電が多かったが、奥に進むに従って、かなりの年代物が姿を現した。
リーダーの役割として「棄てるのを躊躇う様な物」が出てきたら通報の役割があったので、市の文化財担当の人へ連絡する。他の作業や廃棄せずに納屋の側に留め置きをしていると、文化財担当の人が到着。昔の家財道具や古文書などが水濡れしているものの廃棄せずに市で保管という形になった。
中にはこの家での婚儀に使うであろう什器一式がはいった長持ちなど、家の歴史に深い関わりを持った物である。家の人は水に浸かった物は全て棄ててしまえと言うものの、分析次第ではその集落の歴史がまるごと詰まっているであろう資料を守れた事は嬉しかった。
午前の作業を終えて、作業服を片付けた。
明日の撤収の前に岩沼市の事を知っておきたいと市街地を歩く事にする。竹駒神社こそ行ったものの、街の概要は掴んでいなかったからだ。図書館も地震の影響で開館していないのも大きい。
竹駒神社の近くに「二木の松」なる案内板があり、それを見ると、芭蕉や西行なども陸奥に於いての枕詞とした松である。その案内板には「岩沼は奥州街道の宿場として…」とあったので、本陣跡を探す。そこで竹駒神社の正面の道を目安として、道を歩く。その道を一本脇の道に入ると、趣ある土蔵を持つ家を発見。近くに「本陣跡」「脇本陣跡」とある標識を発見。その周辺には商家であったろうと思われる趣ある家屋や蔵が点々としている。目立って多い訳ではないが、少しでも土地の歴史に係われた気がして嬉しかった。
テントに帰り、この場で出来る限りの片付けを行い、余った食品などは周囲のテントの人達に譲った。次第に夕焼けになり、この地で最後の景色を眺めた。この所、曇りが多く、夕焼けを見る機会は無かったのだ。
こうして私のボランティア活動は終わった。
受け入れ側の不備なども感じた点もあるが、やはり志を同じくする者が一処に集まった時の素晴らしい力。普段の生活では知り得ない知識。そして感じる縁。多くの人に感じて貰いたい。
震度6を体験したのもあるが、故郷で起こる事が予測される大地震に備えると共に、災害発生時に如何に復旧の力を呼び込むか、大いなるヒントにしたいと思う。
2011年04月13日
4月12日
5時起床。夜は止んでいた雨が再び降っている。
朝食を摂り二度寝。
8時起床。雨は上がり青空は澄み亘っているが風が非常に冷たい。
今日は男性6人の班。場所は一番最初に携わったお宅の隣で、作業もまた同じように藁を回収する作業。
昨日と違って非常に風が強く、汗もかかない。
藁の回収は一通り終わり、流れ着いたゴミの回収に。そんなに無いと思っていたが、お宅の裏には流れた家屋があり、それが元で多くの物が流出していた。依頼主のお宅にとっては要らない物でも、家屋が流れてしまった人には、一つ一つ思い出を確認を要する様な物もあり、復旧作業の難しさを感じた。
午前の部が終わり、テントに戻る。強風が気になっていたので、テントが気になっていたが、テント場はそれほどで無いのに安堵する。
テント場の駐車場で、入浴支援活動をされている二人が入浴車両を清掃していたので覗いてみる。昨日がかなり汚れたらしい。すると、昼食ついでに仙台空港の辺りを見に行かないかと持ち掛けられたので、ご一緒する。
仙台空港へは車で20分ほど。空港の建造物は然程でもないが、周辺の商店や駐車場に停まっていたであろう自動車の被害が凄まじい。てっきり被害にあった車両を停めていたのかと思っていたが、全て元に駐車していた車両だという。
空港近くの海岸へ行って見ると、ここでも防潮堤が完全に破壊され、機能は無いに等しい。
その時、揺れを感じた。昨日も何度と余震が続いたので、揺れてなくても揺れている感じになってしまうのだが、一緒にいる人も感じていた。揺れは然程でも無いが、1分近いので慌てて車に戻ってその地を離れた。
途中にあった食堂で昼食とする。するとテレビでは福島県で震度6弱と放送している。改めて海岸にいたのが怖くなった。
テント場に戻り、午後の作業から帰って来た人達の道具を洗う。
その作業を終え、室内で新聞を読んでいると、「ここではボランティアに宿も出さないのか」と騒いでいる人が。話を聞くと、熊本からバイクで来たのだから、避難所で宿泊させろという。しかしその人は来たばかりで作業もしてない。基本的に自己完結出来ない人は迷惑なだけだと思う。しかもテントは持って来ているが、寒いから嫌だというかなり残念な人である。
テント場に戻り読書していると、持って来た本を読みきったので、近くにある中古本の見せに行くと、店の入り口に「天井が一部崩落しているので緊急地震速報や余震を感じたら外へ出てくださいとある。」実際に天井が一部崩落している。中にはリサイクルショップもあったので、見ていたら好きなブランドのアウターがあったので購入、本も一冊購入した。
朝食を摂り二度寝。
8時起床。雨は上がり青空は澄み亘っているが風が非常に冷たい。
今日は男性6人の班。場所は一番最初に携わったお宅の隣で、作業もまた同じように藁を回収する作業。
昨日と違って非常に風が強く、汗もかかない。
藁の回収は一通り終わり、流れ着いたゴミの回収に。そんなに無いと思っていたが、お宅の裏には流れた家屋があり、それが元で多くの物が流出していた。依頼主のお宅にとっては要らない物でも、家屋が流れてしまった人には、一つ一つ思い出を確認を要する様な物もあり、復旧作業の難しさを感じた。
午前の部が終わり、テントに戻る。強風が気になっていたので、テントが気になっていたが、テント場はそれほどで無いのに安堵する。
テント場の駐車場で、入浴支援活動をされている二人が入浴車両を清掃していたので覗いてみる。昨日がかなり汚れたらしい。すると、昼食ついでに仙台空港の辺りを見に行かないかと持ち掛けられたので、ご一緒する。
仙台空港へは車で20分ほど。空港の建造物は然程でもないが、周辺の商店や駐車場に停まっていたであろう自動車の被害が凄まじい。てっきり被害にあった車両を停めていたのかと思っていたが、全て元に駐車していた車両だという。
空港近くの海岸へ行って見ると、ここでも防潮堤が完全に破壊され、機能は無いに等しい。
その時、揺れを感じた。昨日も何度と余震が続いたので、揺れてなくても揺れている感じになってしまうのだが、一緒にいる人も感じていた。揺れは然程でも無いが、1分近いので慌てて車に戻ってその地を離れた。
途中にあった食堂で昼食とする。するとテレビでは福島県で震度6弱と放送している。改めて海岸にいたのが怖くなった。
テント場に戻り、午後の作業から帰って来た人達の道具を洗う。
その作業を終え、室内で新聞を読んでいると、「ここではボランティアに宿も出さないのか」と騒いでいる人が。話を聞くと、熊本からバイクで来たのだから、避難所で宿泊させろという。しかしその人は来たばかりで作業もしてない。基本的に自己完結出来ない人は迷惑なだけだと思う。しかもテントは持って来ているが、寒いから嫌だというかなり残念な人である。
テント場に戻り読書していると、持って来た本を読みきったので、近くにある中古本の見せに行くと、店の入り口に「天井が一部崩落しているので緊急地震速報や余震を感じたら外へ出てくださいとある。」実際に天井が一部崩落している。中にはリサイクルショップもあったので、見ていたら好きなブランドのアウターがあったので購入、本も一冊購入した。
2011年04月12日
4月11日
4時起床。
昨日はネットカフェに泊まったので、入った時間の8時間後には出なくてはならない。4時40分に出る。6時以降は朝食無料らしいのが惜しい。
まだ薄暗い早朝を歩く。車両が轟音を立てて国道4号線を走る。
一時間ほどで吉野家にて朝食。
テントに戻ると新たなテントが増えていて驚く。
受付時間までは寝る事にする。
8時10分に目が覚め、受付に向かう。平日になったものの、今日も多くの人がボランティアに参加している。たまたま並んだら、初日に一緒の班となった若い男性二人であった。
先日は余り話をしなかったものの、今回は待ち時間もあって話をしてみると、隣の亘理町の人で、未だに断水が続いているとの事である。津波の影響は及ばなかったものの、震災後の物不足は深刻だったらしく、寒い朝の中からスーパーに並んでも、手に入るか分からない状況だったという。
そこで知人が勤めていた農協の人に掛け合い米を手に入れたという。
今回の班は男性6人。ボランティアの行き先が決まり赴くと、昨日のお宅の向かいの家であった。
今回の作業は床下に溜まったヘドロの除去。昨日とは変わって室内での作業であり、それだけに被害の深刻さを感じた。
先の話した二人は前にも来たらしく、その時は庭に80センチもの泥が積もっていたという。
室内ゆえ、作業スペースや土砂の搬出にも面倒であったが、一時間ほどで床下の泥は取り除かれ、本来の砂地となると、特有の匂いも無くなった。
休憩中に家の方に地震の様子を聞いてみると、その時は畑で作業していたが、海の方から波が向かって来るのを見て、慌てて避難所である玉浦中学校へ車で逃げたという。周辺の水が引いたのは翌日昼だったが、一週間は行方不明者の捜索などで家に戻れなかったという。
休憩後は庭の土砂の撤去。ここも多くの土砂で埋もれていたが、時折大きな石に当たる。それは庭石だった。それを認めてから庭石を全て出すように探って行くと、家の人が多いに喜んでくれた。
午前の作業が終わると、某カレーショップの差し入れでカツカレーが出たのが嬉しい。
午後の作業班は男性8人、女性4人の12人。移動のバスの席で隣になったのはテントの隣に居た人で、話をすると、なんと東海大開発工学部の学生だったという。ここでも奇妙な出会いである。
作業場所は被災した市営住宅の家財道具の搬出と分別。住民の方は全て居ないのだが、泥にまみれた家財が状況を訴えている様だった。家財を見ればそこの家庭の様子もなんとなく予想が付く。特に汚れた雛人形を処分しなければならないのは心苦しい。
作業も終わると、冷たい雨になった。その中でテントに戻り、ラジオを点けて食事をし始めると、ラジオから緊急地震速報。身構えていると先日のような衝撃は無いものの、ゆっくりした揺れが一分ほど続いた。自分はテントなので地震より雨の方が気になるとも言えるのだが、ラジオから「いわき震度6弱」と聞こえると、いわきで活動している友人の身を案じた。
余震が多いのが気掛かり。
雨が止んだので、歯を磨いて寝ようとしたら、近所の人でお風呂に入りませんか、という申し出。
自分は申し訳ないので断っていたが、ボランティアの人が来て作業しているのに自分たちが何も出来ないのが悔しいのでせめて、と言われ頂く事にした。
お茶を出して頂き、少し地震の時の事も話して頂いた。
やはり現地の人しか分からない事情というものがあるのだなと実感した。
余震が続いた夜であった。
昨日はネットカフェに泊まったので、入った時間の8時間後には出なくてはならない。4時40分に出る。6時以降は朝食無料らしいのが惜しい。
まだ薄暗い早朝を歩く。車両が轟音を立てて国道4号線を走る。
一時間ほどで吉野家にて朝食。
テントに戻ると新たなテントが増えていて驚く。
受付時間までは寝る事にする。
8時10分に目が覚め、受付に向かう。平日になったものの、今日も多くの人がボランティアに参加している。たまたま並んだら、初日に一緒の班となった若い男性二人であった。
先日は余り話をしなかったものの、今回は待ち時間もあって話をしてみると、隣の亘理町の人で、未だに断水が続いているとの事である。津波の影響は及ばなかったものの、震災後の物不足は深刻だったらしく、寒い朝の中からスーパーに並んでも、手に入るか分からない状況だったという。
そこで知人が勤めていた農協の人に掛け合い米を手に入れたという。
今回の班は男性6人。ボランティアの行き先が決まり赴くと、昨日のお宅の向かいの家であった。
今回の作業は床下に溜まったヘドロの除去。昨日とは変わって室内での作業であり、それだけに被害の深刻さを感じた。
先の話した二人は前にも来たらしく、その時は庭に80センチもの泥が積もっていたという。
室内ゆえ、作業スペースや土砂の搬出にも面倒であったが、一時間ほどで床下の泥は取り除かれ、本来の砂地となると、特有の匂いも無くなった。
休憩中に家の方に地震の様子を聞いてみると、その時は畑で作業していたが、海の方から波が向かって来るのを見て、慌てて避難所である玉浦中学校へ車で逃げたという。周辺の水が引いたのは翌日昼だったが、一週間は行方不明者の捜索などで家に戻れなかったという。
休憩後は庭の土砂の撤去。ここも多くの土砂で埋もれていたが、時折大きな石に当たる。それは庭石だった。それを認めてから庭石を全て出すように探って行くと、家の人が多いに喜んでくれた。
午前の作業が終わると、某カレーショップの差し入れでカツカレーが出たのが嬉しい。
午後の作業班は男性8人、女性4人の12人。移動のバスの席で隣になったのはテントの隣に居た人で、話をすると、なんと東海大開発工学部の学生だったという。ここでも奇妙な出会いである。
作業場所は被災した市営住宅の家財道具の搬出と分別。住民の方は全て居ないのだが、泥にまみれた家財が状況を訴えている様だった。家財を見ればそこの家庭の様子もなんとなく予想が付く。特に汚れた雛人形を処分しなければならないのは心苦しい。
作業も終わると、冷たい雨になった。その中でテントに戻り、ラジオを点けて食事をし始めると、ラジオから緊急地震速報。身構えていると先日のような衝撃は無いものの、ゆっくりした揺れが一分ほど続いた。自分はテントなので地震より雨の方が気になるとも言えるのだが、ラジオから「いわき震度6弱」と聞こえると、いわきで活動している友人の身を案じた。
余震が多いのが気掛かり。
雨が止んだので、歯を磨いて寝ようとしたら、近所の人でお風呂に入りませんか、という申し出。
自分は申し訳ないので断っていたが、ボランティアの人が来て作業しているのに自分たちが何も出来ないのが悔しいのでせめて、と言われ頂く事にした。
お茶を出して頂き、少し地震の時の事も話して頂いた。
やはり現地の人しか分からない事情というものがあるのだなと実感した。
余震が続いた夜であった。
2011年04月11日
4月10日
5時起床。
昨日、洗濯をしてしまったので、着るy物が少なく寒さで目が覚める。
朝食にはシリアルを食べているのだが、寒いので牛乳をあっためて食べる。
公園の気温計は三度。濃霧である。
食べると体が温まったのか、もう一寝入り気がつくと8時半、ボランティアの受付に行かねば。
日曜日で参加者も多いのか、今までとは桁違いの参加者。従って、待ち時間も長い。
私の後ろにいた初参加の方とお話。50歳くらいの男性で妻の実家が石巻で被災したのだという。私が静岡だというと、やはり静岡に原発あるんじゃない?という質問。結構、この質問をされるのだが、やはり今回の福島の件があるのだろう。
10時半にボランティア開始。
今回の班は男性のみ12人。高校生が三人いたが、いずれも複数回参加であるということで班長に。
今回は二世帯住宅の人で庭のヘドロの除去。庭には10センチほどのヘドロに覆われてしまい、その下に本来の土壌があるのだが、明らかに違う土壌である。ヘドロの腐臭に包まれたなかでの作業意。それほど暖かい気温ではないのだが、Tシャツになって作業した。
その庭には潰れた納屋があり、地震で倒壊したのかと思ったら、三軒先の家から丸ごと流れてきたという。息子夫婦の家は新しいからかそれほどダメージは見られないが、それでも150センチくらいの高さに水の線がある。親夫婦の家は赤紙(倒壊の判定)が貼られていた。
二時間で庭の泥は取りきれなかったが、それでも2m近くの山になった。
帰ると豚汁の炊き出しを、新潟県小千谷市の人たちが行っていた。中越地震での恩返しであるという。
災害が取り持った縁であるが、このようなリンクが出来上がっていくと大いなる力になるのではないかと確信。
午後の仕事は人数が足りたのでなくなってしまった。
そこで、実際に歩いて被災地を見ることにする。
作業のときはやはり写真は撮れないので、自分の足でも見てみようとおもったのだ。
テント場から県道125号線をどんどん海側に向かって歩いていく。
そこには水田であったであろう場所に木片や自動車、様々な物が散乱しているのを見る。ボランティアの人数が足りている、というのはあくまでも依頼に対しての人数であって、避難所にいる人は自分の家の把握なども出来ないからボランティアに来てもらうかどうかの申請も出来ないのではなかろうか。それを考えると、避難所にいる人への聞き取りなどもしてニーズを汲み取る必要性もあるのではなかろうかと思う。(あくまで想像です。)
ボランティアで作業したのは玉浦地区というところであるが、それも更に海側へ向かうと凄まじい。電柱が折れているのだが、アメ細工の様にぐにゃりと曲がっている。無論、電線もそこいらに散らばっている。景観の観点でされる電線地中化であるが、防災の面でも進めるべきだろう。一つの電柱が倒れると引っ張られて周辺のも道づれになってしまう。
そこで目立ち始めるのが、根っこがついたままの松ノ木である。これは海岸沿いの防風林ではないだろうか。高さ10m近くある松が根っこのまま3キロちかくまで運ばれている。
更に海側へ進み、二の倉地区に入ると様相は一変する。
破壊の様相は激烈となり、原型を留めている物が無いのである。車も家も、全て原型を留めない。もっとも恐怖だったのは、家屋がそのまま裏返しになっているものも。
玉浦地区では家屋に損傷はあっても、塀などは無事であった。しかし二の倉地区では石造りのものでも破壊され削られている。中には地区の鎮守であったろう神社も海側の面が全く無い。更に海側に近づくと、次第に破壊された家屋も少なくなって、「完全に破壊され』土台のみとなった家屋の跡である。そこに散乱していた「七五三おめでとう」と書かれていたアルバムの子は無事なのだろうか。
こうして海に到達したのだが、防波堤は津波の衝撃で構造が破壊されてしまい、堰堤の中の土壌が流出し、構造の骨組みだけが残されている。まだM8クラスの余震が警戒されているが、防波堤は切れているところもあれば強度を保っていない所もある。これらの補修が間々ならない中で地震が来ないことを祈るばかりである。
たまたまこの近くに防風林の完成記念碑があった。あくまでも防風林であるが、多少は津波の力をこの防風林が殺いだのではないか。
堰堤に上り多くの生命を流し去ったであろうその波濤を見、静かに手を合わせた。
戻って少し南下し、工業団地の辺りを見てみる。
やはり家屋よりも造りががっしりしているからか、なんとか原形をとどめているが、壁に着いた線を見ると4m近い。
道端には様々な書類が散乱している。そして、油っぽい匂いも充満する。きっと、先の水田であったところにも行っているだろう。土壌の問題もこれからの課題であろう。
昨日、洗濯をしてしまったので、着るy物が少なく寒さで目が覚める。
朝食にはシリアルを食べているのだが、寒いので牛乳をあっためて食べる。
公園の気温計は三度。濃霧である。
食べると体が温まったのか、もう一寝入り気がつくと8時半、ボランティアの受付に行かねば。
日曜日で参加者も多いのか、今までとは桁違いの参加者。従って、待ち時間も長い。
私の後ろにいた初参加の方とお話。50歳くらいの男性で妻の実家が石巻で被災したのだという。私が静岡だというと、やはり静岡に原発あるんじゃない?という質問。結構、この質問をされるのだが、やはり今回の福島の件があるのだろう。
10時半にボランティア開始。
今回の班は男性のみ12人。高校生が三人いたが、いずれも複数回参加であるということで班長に。
今回は二世帯住宅の人で庭のヘドロの除去。庭には10センチほどのヘドロに覆われてしまい、その下に本来の土壌があるのだが、明らかに違う土壌である。ヘドロの腐臭に包まれたなかでの作業意。それほど暖かい気温ではないのだが、Tシャツになって作業した。
その庭には潰れた納屋があり、地震で倒壊したのかと思ったら、三軒先の家から丸ごと流れてきたという。息子夫婦の家は新しいからかそれほどダメージは見られないが、それでも150センチくらいの高さに水の線がある。親夫婦の家は赤紙(倒壊の判定)が貼られていた。
二時間で庭の泥は取りきれなかったが、それでも2m近くの山になった。
帰ると豚汁の炊き出しを、新潟県小千谷市の人たちが行っていた。中越地震での恩返しであるという。
災害が取り持った縁であるが、このようなリンクが出来上がっていくと大いなる力になるのではないかと確信。
午後の仕事は人数が足りたのでなくなってしまった。
そこで、実際に歩いて被災地を見ることにする。
作業のときはやはり写真は撮れないので、自分の足でも見てみようとおもったのだ。
テント場から県道125号線をどんどん海側に向かって歩いていく。
そこには水田であったであろう場所に木片や自動車、様々な物が散乱しているのを見る。ボランティアの人数が足りている、というのはあくまでも依頼に対しての人数であって、避難所にいる人は自分の家の把握なども出来ないからボランティアに来てもらうかどうかの申請も出来ないのではなかろうか。それを考えると、避難所にいる人への聞き取りなどもしてニーズを汲み取る必要性もあるのではなかろうかと思う。(あくまで想像です。)
ボランティアで作業したのは玉浦地区というところであるが、それも更に海側へ向かうと凄まじい。電柱が折れているのだが、アメ細工の様にぐにゃりと曲がっている。無論、電線もそこいらに散らばっている。景観の観点でされる電線地中化であるが、防災の面でも進めるべきだろう。一つの電柱が倒れると引っ張られて周辺のも道づれになってしまう。
そこで目立ち始めるのが、根っこがついたままの松ノ木である。これは海岸沿いの防風林ではないだろうか。高さ10m近くある松が根っこのまま3キロちかくまで運ばれている。
更に海側へ進み、二の倉地区に入ると様相は一変する。
破壊の様相は激烈となり、原型を留めている物が無いのである。車も家も、全て原型を留めない。もっとも恐怖だったのは、家屋がそのまま裏返しになっているものも。
玉浦地区では家屋に損傷はあっても、塀などは無事であった。しかし二の倉地区では石造りのものでも破壊され削られている。中には地区の鎮守であったろう神社も海側の面が全く無い。更に海側に近づくと、次第に破壊された家屋も少なくなって、「完全に破壊され』土台のみとなった家屋の跡である。そこに散乱していた「七五三おめでとう」と書かれていたアルバムの子は無事なのだろうか。
こうして海に到達したのだが、防波堤は津波の衝撃で構造が破壊されてしまい、堰堤の中の土壌が流出し、構造の骨組みだけが残されている。まだM8クラスの余震が警戒されているが、防波堤は切れているところもあれば強度を保っていない所もある。これらの補修が間々ならない中で地震が来ないことを祈るばかりである。
たまたまこの近くに防風林の完成記念碑があった。あくまでも防風林であるが、多少は津波の力をこの防風林が殺いだのではないか。
堰堤に上り多くの生命を流し去ったであろうその波濤を見、静かに手を合わせた。
戻って少し南下し、工業団地の辺りを見てみる。
やはり家屋よりも造りががっしりしているからか、なんとか原形をとどめているが、壁に着いた線を見ると4m近い。
道端には様々な書類が散乱している。そして、油っぽい匂いも充満する。きっと、先の水田であったところにも行っているだろう。土壌の問題もこれからの課題であろう。
2011年04月10日
4月9日
雨でボランティア作業は中止となった。
ラジオを聞きながら読書。ラジオのCMは圧倒的に保険会社と住宅メーカーが多い。
地元ラジオでは遺体を発見した時、などのテレビでは見ない情報も流れている。
午後になると雨が上がり始め一旦外に出ると、テントの水溜まりが黄色い。黄砂の様だ。
歩いて市街地へ向かい、昨日お風呂に入れなかったホテルに行ってみると、まだ直ってないらしいが、あと一時間で直るという。そこで、先にコインランドリーにて洗濯と食事をする。
キッチンさいとうというお店。オムライスを頼む。食事している途中、震度4程度の地震発生。それをきっかけにお店の人と話す。先の地震では並べていた酒瓶がことごとく落ちてしまったらしい。
食事した後、ホテルに行き入浴。しかしまだ調子が悪いのか、お湯になるのに時間がかかった。浴槽にも湯が溜まっていなかった。そんな中でも、他の人の話を聞いていると、亘理町で被災したという人で、まだ建てて三年の家が津波に呑まれ、流されはしなかったものの、全壊に近いとか。岩沼市にはもうアパートがなく、柴田町にて探しているとの事であった。
もう一人は埼玉から来た住宅メーカーの人で、工場が仙台にありその復旧の応援に来たそうである。工場で勤めていた100人の内、25人が津波で亡くなり、30人は家族の誰かを失ったそうである。
そんな人々の思いが交錯するお風呂であった。
テントに戻り、洗濯物を干して就寝。
ラジオを聞きながら読書。ラジオのCMは圧倒的に保険会社と住宅メーカーが多い。
地元ラジオでは遺体を発見した時、などのテレビでは見ない情報も流れている。
午後になると雨が上がり始め一旦外に出ると、テントの水溜まりが黄色い。黄砂の様だ。
歩いて市街地へ向かい、昨日お風呂に入れなかったホテルに行ってみると、まだ直ってないらしいが、あと一時間で直るという。そこで、先にコインランドリーにて洗濯と食事をする。
キッチンさいとうというお店。オムライスを頼む。食事している途中、震度4程度の地震発生。それをきっかけにお店の人と話す。先の地震では並べていた酒瓶がことごとく落ちてしまったらしい。
食事した後、ホテルに行き入浴。しかしまだ調子が悪いのか、お湯になるのに時間がかかった。浴槽にも湯が溜まっていなかった。そんな中でも、他の人の話を聞いていると、亘理町で被災したという人で、まだ建てて三年の家が津波に呑まれ、流されはしなかったものの、全壊に近いとか。岩沼市にはもうアパートがなく、柴田町にて探しているとの事であった。
もう一人は埼玉から来た住宅メーカーの人で、工場が仙台にありその復旧の応援に来たそうである。工場で勤めていた100人の内、25人が津波で亡くなり、30人は家族の誰かを失ったそうである。
そんな人々の思いが交錯するお風呂であった。
テントに戻り、洗濯物を干して就寝。
2011年04月09日
4月8日
5時半起床
テント場に居る人と色々とボランティアに関しての話を聞く。
8:45ボランティア受付、総勢50人ほど、私の班は私以外は男性3人、地元の女子大生4人だが高校のジャージを来ている。
今まで津波の被害というものが想像出来なかったが、伺った家に近づくにつれ、報道で見た映像が眼前に展開された。
伺った家は老夫婦の家で聞く所、1mほどの津波に呑まれたという事で壁に線で記されていた。
作業は津波によって流されてきた藁の除去。それほど力仕事で無いが、一様に藁が積もり、二時間の作業で2m程の山になった。
午前の作業が終わり昼食。午後の受付に向かうと、午後の作業は依頼が少ないので作業は無し。ただ、道具の洗浄を頼まれ行った。それも一時間ほどで終了した。
隣のテントの人に車に乗せてもらい街の案内をしていただいた。日帰り入浴出来るホテルを教えて貰ったが、昨日の地震で給湯設備が壊れてしまい入れないという。
竹駒稲荷について聞かれたので、過去二回行った事を言うと案内する事に。社殿や随神門は無事だが、燈籠がことごとく倒れていた。
その人は土曜日に帰るので、軽く宴会する事に。他のテントの人も加わり自己紹介。北海道の利尻島に住んでいる人、横須賀の介護施設から派遣されて、足湯ボランティアを展開してるお二人、世話になった人は東京でシステムエンジニアを自営でやっている人である。
こうして夜は更けていった。
テント場に居る人と色々とボランティアに関しての話を聞く。
8:45ボランティア受付、総勢50人ほど、私の班は私以外は男性3人、地元の女子大生4人だが高校のジャージを来ている。
今まで津波の被害というものが想像出来なかったが、伺った家に近づくにつれ、報道で見た映像が眼前に展開された。
伺った家は老夫婦の家で聞く所、1mほどの津波に呑まれたという事で壁に線で記されていた。
作業は津波によって流されてきた藁の除去。それほど力仕事で無いが、一様に藁が積もり、二時間の作業で2m程の山になった。
午前の作業が終わり昼食。午後の受付に向かうと、午後の作業は依頼が少ないので作業は無し。ただ、道具の洗浄を頼まれ行った。それも一時間ほどで終了した。
隣のテントの人に車に乗せてもらい街の案内をしていただいた。日帰り入浴出来るホテルを教えて貰ったが、昨日の地震で給湯設備が壊れてしまい入れないという。
竹駒稲荷について聞かれたので、過去二回行った事を言うと案内する事に。社殿や随神門は無事だが、燈籠がことごとく倒れていた。
その人は土曜日に帰るので、軽く宴会する事に。他のテントの人も加わり自己紹介。北海道の利尻島に住んでいる人、横須賀の介護施設から派遣されて、足湯ボランティアを展開してるお二人、世話になった人は東京でシステムエンジニアを自営でやっている人である。
こうして夜は更けていった。
2011年04月08日
4月7日行程
0535起床〜0657加治
平木田周辺は防風林、延々と平野である、
坂町での高校生は挨拶が良い、
岩船辺りからは堆肥の香りが車内まで
村上駅で大半下車、そのさき日本海を見る。
越後早川からは粟島と断崖絶壁
桑川は昔野宿した道の駅笹川流れに
越後寒川の先に「鉄道塩害研究所」
板塀の家屋が多い
少し寝る
山形に入ると再び雪が多い鶴岡からは月山が真っ白
0930酒田
本間旧宅、鐙屋、山居倉庫、弁当購入
1145羽越西線〜
友達が皆都会に出て寂しいという女子二人
狩川駅から風力発電を見る
寝る
1250新庄
商店街散策、
1419新庄発
東根市辺りからは雪が見当たらない。
天童ではくちびる美人コンテスト
1527山形
1559バス乗車〓900円
山形の小学生は詰襟制服
仙台市街内は目立た被害見られず
1710仙台駅
ダイエーで買い物、物資は豊富である
1815あおば通り駅〜1818仙台東北本線1839〜1900岩沼駅
1950中央公園にてテント設営〜2035終了そのまま就寝
2332地震発生、テントで周辺は倒れる物もないので冷静だったが、建物でないのにガタガタと音がするのが不思議だった。
周りの住宅に電気がつくが一斉に消え真っ暗に。サイレンが鳴り響き避難する車の渋滞も。しかし信号が消えているので国道4号線を渡れない。ヘルメット被らずバイクで避難する人も
同じテント場に居る人に、此処は前の地震でも津波は来ていないとの事を聞きひと安心。それが顔合わせになった。
現地入り初日、大地は手荒い歓迎を用意した。
平木田周辺は防風林、延々と平野である、
坂町での高校生は挨拶が良い、
岩船辺りからは堆肥の香りが車内まで
村上駅で大半下車、そのさき日本海を見る。
越後早川からは粟島と断崖絶壁
桑川は昔野宿した道の駅笹川流れに
越後寒川の先に「鉄道塩害研究所」
板塀の家屋が多い
少し寝る
山形に入ると再び雪が多い鶴岡からは月山が真っ白
0930酒田
本間旧宅、鐙屋、山居倉庫、弁当購入
1145羽越西線〜
友達が皆都会に出て寂しいという女子二人
狩川駅から風力発電を見る
寝る
1250新庄
商店街散策、
1419新庄発
東根市辺りからは雪が見当たらない。
天童ではくちびる美人コンテスト
1527山形
1559バス乗車〓900円
山形の小学生は詰襟制服
仙台市街内は目立た被害見られず
1710仙台駅
ダイエーで買い物、物資は豊富である
1815あおば通り駅〜1818仙台東北本線1839〜1900岩沼駅
1950中央公園にてテント設営〜2035終了そのまま就寝
2332地震発生、テントで周辺は倒れる物もないので冷静だったが、建物でないのにガタガタと音がするのが不思議だった。
周りの住宅に電気がつくが一斉に消え真っ暗に。サイレンが鳴り響き避難する車の渋滞も。しかし信号が消えているので国道4号線を渡れない。ヘルメット被らずバイクで避難する人も
同じテント場に居る人に、此処は前の地震でも津波は来ていないとの事を聞きひと安心。それが顔合わせになった。
現地入り初日、大地は手荒い歓迎を用意した。
2011年04月07日
4月6日行程
0901三島〜
0915熱海〜慌ててグリーンに乗るも一般車両へ、湯河原は桜、小田原で座れる、
1057東京1101山手線〜
1109上野1114高崎線〜
1204鴻巣1206〜倉賀野の前で美しい山を見る、富士山かと錯覚、
1300高崎1331弁当購入。岩本駅手前は屏風岩、岩本駅に水力発電所、上牧からは谷川岳の眺望素張らしい、上越線〜1439水上、
次発まで3時間あるので民俗資料館に、富士浅間神社なる御札、三峰信仰圏、馬方と雪国での生活の知恵を感じる、温泉街散策、夕暮れにアーク?彩雲?を見る。
1743〜湯檜曾から土合の間はトンネル駅、ゴツゴツ振動が来る、ループしているらしいがトンネルなのでよくわからない、すごいスピード。トンネルを抜けると雪国だった。その手前にも雪は有ったが量が違う、
越後湯沢で真っ暗、
新潟の人の会話は訛りが感じられない
1935小出駅の先で車両故障によりバスにて振替輸送に
2001バス発車2105長岡
長岡駅周辺は居酒屋ばかりで食事出来る所が無い。
2155信越本線〜2255新津2301羽越本線は機関車、羽越本線〜2334新発田2352〜2358加治・終了、駅で寝る
0915熱海〜慌ててグリーンに乗るも一般車両へ、湯河原は桜、小田原で座れる、
1057東京1101山手線〜
1109上野1114高崎線〜
1204鴻巣1206〜倉賀野の前で美しい山を見る、富士山かと錯覚、
1300高崎1331弁当購入。岩本駅手前は屏風岩、岩本駅に水力発電所、上牧からは谷川岳の眺望素張らしい、上越線〜1439水上、
次発まで3時間あるので民俗資料館に、富士浅間神社なる御札、三峰信仰圏、馬方と雪国での生活の知恵を感じる、温泉街散策、夕暮れにアーク?彩雲?を見る。
1743〜湯檜曾から土合の間はトンネル駅、ゴツゴツ振動が来る、ループしているらしいがトンネルなのでよくわからない、すごいスピード。トンネルを抜けると雪国だった。その手前にも雪は有ったが量が違う、
越後湯沢で真っ暗、
新潟の人の会話は訛りが感じられない
1935小出駅の先で車両故障によりバスにて振替輸送に
2001バス発車2105長岡
長岡駅周辺は居酒屋ばかりで食事出来る所が無い。
2155信越本線〜2255新津2301羽越本線は機関車、羽越本線〜2334新発田2352〜2358加治・終了、駅で寝る