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かるの
各地で歴史講座を展開中。歴史を知る事で、人生や地域が豊かになる事を目指して。
フリーマガジン「道の駅」にも寄稿中。
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2013年08月05日

イギリスと日本をツナいだ船乗り 三浦按針:ウィリアム・アダムス

イギリスと日本をツナいだ船乗り
 三浦按針:ウィリアム・アダムス

~自筆の手紙11通から探る冒険者・按針の人間像~


伊東国際交流協会 異文化理解講座 講師:翻訳家・大森洋子


※以下は聞き書きであり、聞き間違いなどもある事をご了承ください。

1:伊東市と私のツナがり
 
 帆船は風によって生と死、動と静を繰り返す所に惹かれた。
 日本丸の航海に4人の女子学生が初の航海、という事で、その取材という名目で乗船できた。
 日本丸では船内では常に裸足。注意力を常に持つ、という意識。

2:按針と私のツナがり

 日英修好400年となり、英国ではアダムスが取り上げられている。
 アダムスの生地・チャダムでは「イトーロード」「ヨコスカロード」「ウィリアムロード」がある。

3:按針の手紙から探る按針の生い立ちと世界情勢

 アダムスは12歳で父を失いロンドンへ。ライムハウスの造船所で奉公に入り、海事一般を学ぶ。
 スペインのフェリペ二世は英国女王エリザベスに求婚したものの断れられたという事がアルマダ海戦の伏線?
 アルマダ海戦の中の英国海軍リチャードタフィールド号(70人乗り)に船長として参戦している。

4:按針の手紙から探るリーフデ号の日本への航海


 オランダで東洋へ行く船団・ロッテルダム会社に水先案内人として雇われる。リーフデ号は300トンで百人乗り。
 出発が遅く逆風が多くて船足が遅く、予定通りに行かなかった。マゼラン海峡では5か月の越冬で多数の犠牲。
 その後、出版するも大嵐で船団が散り散りに。残ったのは二隻だった。
 そこで積み荷が毛織物だったので暑い東南アジアでは売れないだろうと、北へ向かう事に。
 もう一隻のホープ号は嵐で行方不明に。

5:按針の手紙から探る豊後上陸

 豊後・臼杵に漂着。生き残ったのは18名だった。現地の人は危害を加えなかったが、積み荷を全て持ち去った。

6:按針の手紙から探る家康とのツナがり

 家康と会見し、世界情勢を聞かれる。
 イエズス会の宣教師はプロテスタント国の人であるアダムスらを不利な事を吹き込むが、家康はアダムスの能力を買う。

7:按針の手紙から探る伊東での西洋帆船建造

 堺で修理していたリーフデ号を江戸に回航した。しかし江戸でリーフデ号は沈んでしまった。
 家康はアダムスに船を造るよう指示、その用地として伊東が適地であるとアダムスが選んだ。天領である事、天城山に用材となる樹木が豊富である事、松川をドックとして使える事からである。造船した所は唐人川となっている。
 船が完成した際、周囲は出店が出来るなど非常に賑わったという。
 80トン、次いで120トンの船を造船。その頃、スペインの船が房総半島沖・御宿で座礁したので、乗員らの帰国のためにアダムスの造った120トンの船が使われた。スペイン側はその性能を気に入り、返却しなかった。

8:按針の手紙から探る船乗り按針、商人按針

 アダムスは平戸の商館に勤めるが、官舎には住まずに日本的な一般家屋に住んでいた。
 アダムスは日本での生活を「evil life」と日記に記している。「不運な」と訳すべきか?
 平戸の商館長・セーリスに帰国を誘われたが、イギリスを出国して20年以上を経ていた事もあり諦めた。日本での生活が余りに悲惨なら帰国していたのではなかろうか。

9:按針の11通の手紙を入手するまで

 大英図書館にアダムスの手紙が11通残されているが、手書きの為、英国人でも読みづらい。

按針の11通の手紙
①c1605    日本 イギリスの妻へ
②1611    平戸 バンタムの見知らぬ友人と同胞たちへ
③1613/1/12  平戸 バンタムのオーガスティン・スポルディングへ
④1613/12/1  平戸 ロンドンの東インド会社へ
⑤1613/12/1  平戸 バンタムのトマス・ベストへ
⑥1614/7/26  平戸 江戸のリチャード・ウィッカムヘ
⑦1615/10/29 静岡 江戸のリチャード・ウィッカムヘ
⑧1616/10/14 江戸 平戸のヤック・スペックスへ
⑨1617/1/14  平戸 ロンドンのサー・トマス・スミス総裁へ
⑩1617/11   堺   平戸のリチャード・ウィッカムヘ
⑪1620/5/16 大坂 平戸のリチャード・ウィッカムヘ

A1620/5/16  平戸 遺書
B1614.11~1616.11 琉球への航海日誌
C1619.5.15~8.22  トンキンへの航海日誌

按針の手紙の単語表記
「yf=if」「tyme=time」「dessir=desire」「wheear=where」「Wourshipfull=Warshipful」「geve=give」「Kinge=King」
「ens=use」「sence=since」「pilott=pilot」「m'r=master」「holl=whole」  


Posted by かるの at 08:14Comments(0)受講日記

2013年07月17日

富士竹類植物園

 受けていた講座の一環で、富士竹類植物園に行って来ました。



 笹と竹の違いは、筍の時に付いている皮が自然に剥がれる物が竹、付いたままのものが笹ということ。

 竹の語源は「猛々しく伸びる」事から。英語のBambooも焼いた時の破裂音からだそうです。

 竹は地下茎で増えるので、園内は土中に1m以上の壁を埋めて余計な繁殖を防いでいるとか。



 筍は地面から出る寸前の物を掘る、という事は知っていましたが、背丈より高くなった所で揺さぶって、折れた先端部も美味しい、という事を聞きました。

 竹は真っ直ぐ伸びるイメージですが、この様に曲がる物や四角いものも。


 園内は竹に囲まれて非常に静謐な雰囲気。なんとなく、この会場で夜にJAZZなどを聞いてみたい。

 竹の花。

 ここの園長さんは毎年、どこがしかの竹の花を見に行っている、との事。

 資料館内には竹に関する植物学的なことから、各国の竹にまつわる文化や民俗に関する事も展示されています。


 竹に関しては日本がほぼ北限との事。
 竹林整備の方法、竹の建材や、竹を原料にした土壌改良剤などを企画しているとか。
 竹水という熱帯地方での安全な水の確保方法がありました。非常に飲んでみたい。

 かつて駿東地域で盛んだったスズ竹を原料にした行李。

 スズ竹が無くなってしまい、産業も無くなってしまうという一面も展示されています。  


Posted by かるの at 08:18Comments(0)受講日記

2013年03月26日

東日本大震災から二年 現場から生の声を聴く 島田市にて

 3月23日、岩手県大槌町の大槌稲荷神社の神主・十王舘勲氏による講演が行われたのを聴講した。
 十王舘氏は地震発災直後から、神社の境内と建物を避難所として開設し、周辺の人を受け入れた。
 以前、大槌町に行った際、色々とお話を伺ってお世話になった人である。

 ※以下は聞き書きであり、全てを収録したものでなく聞き間違えや勘違いもありますのでご了承ください。

 二年前の3月11日、我が町含め被災した人々は、当たり前の朝を迎え、普通の生活をしていた中での津波でした。
 三陸地方は学者の人が言うように、50年に一度は津波をもたらす地震が来る、という所です。口伝でも過去の津波がここまで来る、という石碑や印が町の中にもありましたが、それすらを軽々と超える津波でした。
 神社から見える安渡(あんど)地区は800戸程でしたが、100戸残りませんでした。大槌町の建物の被災率は92%です。
 私は、皆さんが家に帰って家族で災害とはこういうものだという話し合いが出来れば、と思います。

 地震には縦揺れ・横揺れがあると聞きますが、3月11日の地震は円を描くようでした。テーブルのコップが落ちそうで落ちなかったです。それで、これは只事ではないと思いました。全ての戸を開け放って、境内の下を見ますと、町の人が集まってガヤガヤしていました。気温は零度以下だったと思います。境内の斜面の法面に亀裂が入り、そこに人が近づかないようにと結界をしていましたら津波が来ました。
 3月11日の一年前、チリで起きた巨大地震で津波警報が発令された時、8名ほど受け入れたことがありました。その時に、暖房が大事だと燃料を常に準備しておかねば、と思い準備していました。地震の後、停電と断水がありましたが、燃料があったので発電機を回して最低限の電力を確保し、薪ストーブで暖をとったり調理が出来た事は非常に大きかったです。
 神社は境内が海抜20m位の所ですから、津波が黒い煙を引き連れて、多くの物を壊しながら壁になって襲ってきました。津波は波ではありません。壁です。目の前で知っている人々が飲み込まれていきました。

 神社に生まれて、幼い頃に祖父が家の前の前で、「津波が来れば町は無くなるぞ。覚えておけ。」と言った時がありました。それは何度とありまして、また言ってるなと思ってましたが、少しづつ伝えられた口伝が50年を経て役に立ったと。「津波は2月か3月の寒い時、夜明け前に来る。助けてくれという声が聞こえても、行ってはいけない。お前の役目は神社の階段の入り口に逃げてくる人の目安にする火を焚く事だ。それで暗い所に行ってはいけない。」今回は灯光器を点けましたが、助かった人は居ません。想定外でした。
 その日の夕方、波を被ったけど助かった人をストーブで暖めてて服が乾いたら、家に携帯電話や通帳や現金など大事な物を取りに行きました。そしてそれを止める人も居ません。しかし、戻って来れなかった人も居ました。

 当日は80人ほどが避難所に入りました。二日目には裏山に逃げた人などが入って来て、140名ほどになりました。三月末に内陸の方の温泉施設の方がお年寄りや体力が弱っている人を受け入れてくれて、100名ほどになって助かりました。
 ライフラインとは良く言ったものです。若い人はともかく、津波から逃れても体力の無い人や病人の人が点滴を受けられずに亡くなった人も居ます。ずぶ濡れになって避難所に入ったのに、気付いて貰えずに寒さで亡くなった人など、津波から逃れても、その後日に死ぬ人も出て来ます。これは覚えて欲しい。
 その後、多くの人が家族を探しに行きます。各地の遺体安置所を廻って行きますが、時間が経つにつれて顔が変わって分からなくなってしまう。生き残った人は自分の親兄弟を探すのに非常に苦労します。顔があればまだいい。そうでない場合もある訳です。未だに見つからない遺族の人も居ます。家族の人の特徴を憶えて貰いたいです。
 神社に道路が繋がるまで10日掛かりました。町中全ての瓦礫が神社の前に集まって残ってしまったからです。それを撤去する重機の音が止まって笛の音が聞こえると、それは遺体が見つかった訳です。遺体が搬送されて重機が動く、そして笛の音、これの繰り返しでした。距離にすると20mに10日掛かった訳です。自衛隊の人が繋がりましたと報告してくれた時、皆は良かった良かったと言ってた訳ですが、ある女性が「お風呂に入ってくる」と言いました。それで避難所の中の我慢や秩序が崩れた訳です。持てる者と持たざる者との格差が生まれるのです。
 避難所の現実は美しいばかりではありません。「絆」という言葉はマスコミの方がこうあって欲しいという意図だと思うのです。ある時、遠くが見えるようにと双眼鏡を置いておいたら、それを見ていたお年寄りが、遺体の指を切って指輪を奪う者を見たそうです。良かれと思ってやった事が裏目に出てしまいました。生の声を聞く、という事ですから申しました。

 これからは防災の面から申します。防寒は厚い服を着るよりも、薄い肌着を何枚も着るようにして下さい。洗濯も楽ですし、嵩張らない。そして食べ物の他に調味料のさしすせそを用意して下さい。砂糖・塩・酢・醤油・味噌ですね。あと油を一本。救援物資で食べ物が届いても、同じ味が続くと参ってしまう。同じ食べ物でも、調味料があれば味を変える事が出来るわけです。調味料が支援物資として届く事はありませんでした。後は乾電池、充電できる電池。ラジオも持ってほしい。車の電源を使えるインバータもあれば持ってほしい。ペットボトルも入れ物として役に立ちます。米なんかを入れておくと虫が付かない。

 子供には一人になったら優しそうな服を掴んで離すな、と言って下さい。一人ぼっちだと避難所から出されます。自分の荷物が無くなっている事も多々あります。
 私が避難所を運営していた時はずっとボランティアを断っていました。ここは大丈夫だ、もっと大変な所があるからと。自分で頼んだのは、地元のマッサージ士と水運びをする人です。
 ある日、足湯のボランティアに来た、という人が来ました。足湯をするから湯を沸かしてくれという、バカじゃないのか。ある日には、弁護士を名乗る人がテレビカメラを連れて、これからのまちづくりを、などと語る訳です。それどころではないだろうと。
 そんな中で断っても帰らなかったのが青山真虎さんです。彼こそ、私と島田市を繋ぐ絆になった人です。


話者:青山氏に

 3月11日の地震後、三週間後に大槌町に入りました。川根から100キロのお茶を寄付して頂き、井戸水を持って行きました。
 初めて十王舘さんにお会いした際、「後で金を請求するんじゃないだろうな。」と疑われたのを憶えています。混乱している時だから仕方ないかなと思いつつも、お茶を淹れさせて頂きました。
 地震から一年経った時、十王舘さんから慰霊を行いたい、という事で大槌町で亡くなった1450名に見立てた蝋燭を島田市民500名の協力で作りまして、大槌町に持って行った。大槌稲荷神社の境内の下の鳥居は隣の地区に流されていたのですが、この慰霊に間に合うように元の位置に戻してくれました。そこから蝋燭を祭壇まで並べました。祭壇には猿田彦の神様を祀りました。猿田彦は導きの神様だからです。全ての人がありがとうと言ってくれました。
 今、聞ける事ですが、災害後、困った事は何ですか?


十王舘氏
 全てに困りました。同じ顔の面子がずっと集まっているからアラが見えてくる訳です。すると攻撃される人が出てくる訳です。それは決まって弱い人です。海の街ですから海難事故の加害者・被害者のしがらみなんかが一か所に集まる訳です。そういう立場に無い若者が、年寄・子供・女性を守るんだ、という意識を持たせることです。
 義援金を世帯毎で頂きましたが、すると会った事も無い親類が出て来て寄越せと言われた人が何人も居ます。
 個々の人が奮い立たなければならない。ただそれだけだと思います。あと、境内の斜面にデッキとツリーハウスを設けて、仮説住宅に居る子供の勉強部屋に、文化活動を行う人に使ってほしい、「とうとうの森」を作る事が、私のライフワークです。




今回の話は、以前では伺えなかった話も出てきた。それだけ、時を経て話せる事もあったのだろうな、とも思った。
平時に理想論を語るのは簡単だ。でも、有事の際にはその理想を遂行するためにも、現実を見詰めなければならないと思った。  


Posted by かるの at 08:08Comments(1)受講日記

2012年10月27日

「共感の魔法」樋渡啓祐武雄市長 10月22日

講師:佐賀県武雄市長 樋渡啓祐氏


※以下は聞き書きであり、全てを網羅している訳でなく、聞き間違いなどもある場合があります。ご了承ください。

「私の講演は最後の15分だけ大事なことを言いますから、あとは寝てていいです。
私は大人しい人間だと自負していますが、発言が過激らしいので、いつ刺されてもおかしくない状況なんです。」
「怪文書はたぶん日本で一番多くいただいているので、辞める時は日本怪文書集というのを三島のZ会から出そうと思ってます。」
「提訴を2件受けていて21億円の損害賠償請求を受けています。」
「そこで、いつ刺されてもいいように、葬式の時に流せるVTRを作って貰いましたのでご覧ください。」

VTR
「樋渡武雄市長は、42歳。元総務省官僚で平成18年に武雄市長選挙に立候補し当選。
現在、3期目ですが、平成20年に自治体病院の経営形態を巡る対立から市民グループが市長リコールの方針を固めたことに対し辞職で応じ、出直し選挙を行い(投票率80%と独裁国家並です)当選するなど、その行動力から多くの摩擦を生んでいるが、市民の為の行動である。ソフトバンクの孫さんも樋渡市長のことをファンキーな市長と述べている。」

樋渡市長
「今日は三島の人は何人居ますか?(6割ほどが挙手)。三島以外の静岡県内の人(3割ほどが挙手)。県外の人(1割)

自治体の数は1719。6年前、早稲田大学で講演した際、武雄市の知名度は全くなかった。カンボジアのタケオ市ですら知られているのに。佐賀県自体、長崎の西とか言われたり、四国の方とも言われました。有田焼や伊万里焼は佐賀と思われておりません。

しかし、知られてないということは実はメリットと捉えます。ブランディングを自由に描けるから。武雄市の名産は何ですか?ととっさに聞かれて勢いで自分の好きなレモングラスと答えてしまった。言った時は無かったですが、6年経ってレモングラスは名産になりつつあります。この6年で様々な事を仕掛けて来ました。

まず、赤字であった市民病院の民間移譲。これも選挙の争点になりましたが、現在では一億円の黒字、病院を核にした医療の町としてのまちづくりで雇用は400人増えました。

日本図書館協会からは民間企業に委託する事で、利用者の秘密を守るとした図書館の自由に関する宣言に違反することや、労働環境の悪化などに批判が出ている。
が、経費削減につながり、365日朝9時開館、21時閉館、雑誌は150種類用意、本や雑誌、CDの販売も行い、スターバックスも入る。CCCとの提携によりTポイントも付与される。

利用者のデータ収集に関しては、従来の図書カードの利用者は従来通り返却時に記録は消去される。Tカード利用の人に関しては収集されるとして、選ぶ余地を市民に与えている。
市民アンケートでも7割の方が賛成している。
運営側のカルチュア・コンビニエンス・クラブではメリットはまだ見えないと述べているが、公共施設を委託するという事で社員の士気も上がっている。


自分の所が無名であるなら、有名な人を呼んで知名度を高める努力をしています。売名行為とも言えます。勢いのある方と組みたいものですから、橋下徹氏や孫正義氏を呼んだり、逆に(選挙やボランティアに)応援に行ったりして電子媒体に武雄市の事とセットに取り上げられるようにしました。今では仲が良いと思われています。

先程、武雄市は選挙の投票率が高い事を述べましたが、CATVで議会中継の視聴率は50%超、議会の傍聴者は400人前後、ユーストリーム中継では2000人が視聴しています。たかだか四万人の町で。しかし白熱した議論であれば議会中継も見る人が居ます。、説明用のディスプレイを用いて、市民にも解り易く議論します。議会でよくつかわれる言葉で「検討します」というのがありますが、ウチではそれは通用しません。ハッキリした回答でないと即市民から取り上げられます。

私は以下の6つのキーワードを柱にしています。「組む」「反省せず」「過ぎる」「笑わす」「劇場化」「スピード&オープン」これは北朝鮮と同じです。
北朝鮮の様な小国がなぜニュースになるのか。それは大国と交渉するからであり、ニュースになるタイミングで事を起こす。自治体もそうであるべきと思っています。

 組む、というのは、いろんな人と連携すること。自分達にない力は連携で補完するという考えです。

 反省せず、というのは、過去の失敗を反省すると暗くなるし、前向きではない。だから、前を向く、ということ。失敗は失敗と認めた時が失敗であって、成功するまで続ければよいと松下幸之助も言っています。

過ぎる、というのはなんでも過ぎる人でないと人はついてこない。面白くない。仕事でも趣味でも休みでも過ぎる事で大きな事が出来る。

 笑わす、というのは楽しくないとエネルギーが続かない、ということ。面白ければエネルギーが持続する。そして大きな対立も和らげて、新たな展開も見込めます。

  スピードこそ、最大の付加価値であります。公務員は仕事が遅い、と思われがちですが、リスクを取らないから最もスピードがあるはずなんです。仕掛品でもよいので、政策をどんどんと外に出す。そのことにより民意や知恵を得て、必要なら修正すればよい。
橋下徹のトークの師匠は、デーブ・スペクターなんです。最初5秒の見た目が大事。自身を示す時には胸を反って話す。最初の5秒で人心をつかむ。
皆さんも市役所職員に遅い遅いと言わないでください。言い続けられればやる気もなくなりますから、本当に遅くなってしまう。たまには速いねと言って下さい。

世界の人口を考えてみましょう。最も人口が多いのは中国13億人、次いでインド11億人、そしてフェイスブックの利用者は10億人と、世界の6人に1人が利用している。
日本の利用者は1500万人。

武雄市は「facebook city課」を設置しました。
高齢者は、フェイスブックなどできないと思われがちだが、孫や娘に代筆してフェイスブックで武雄市にメールが送られています。
市のホームページをフェイスブックに移行し、デザイン代やサーバー代などがかからないので維持費が600万円から200万円になった。アクセス件数は月5万件から現在380万件です。

儲かる自治体、稼ぐ自治体を目指し、「F&B良品」という市の産品を扱った通販サイトをフェイスブックで展開し、始まって1年間で、これまで70品目1000万円の売り上げがあります。「F&B良品」とはSB食品と無印良品のパクリであります。
「F&B良品」は、手数料がかからないほか、専属のカメラマンを無料で手配します。出品費用や中間マージンを排除することで、消費者も安価に商品を購入出来ます。以前、R市場へ出店して100万円かかっていた出店者が今は経費O円となりました。
正に楽市楽座であります。これで市民の所得が向上すれば武雄市の税収増にもなります。
ネット上の道の駅の地場産品売り場とも言えます。
オリジナリティも大事ですが、既存の物を組み合わせていくべきです。そして組み合わせは自分の趣味と合わせれば上手く行きますし楽しいです。レモングラスもそうでした。
amazonや楽天などの大手事業者には出品できない小規模零細な事業者の皆さんに機会を作る、そして武雄のファンとも物の販売を通じて、交流を深める。通販で売り上げという面もありますが、それを通じた物語の消費をする仕掛けであります。

今の人は単にモノを買うだけではなくて、モノガタリを買いたいと思っている。それは普段から醸し出されるものでなければ通じない。
  これも市ホームページをFB化して、共感を生み出す活動を続けてきた武雄市だからこそできたのです。
このノウハウを他市に提供して、真似してもらって、そこでも連携して同様の取り組みを増やしていきたい。自治体のロールモデルを作り、またそのためのプラットフォームを他の自治体に先駆けて武雄市が作り出すことに付加価値を見出してます。

こう述べていると成功事例が目立ってはいるが、やったことの7割くらい失敗しています。
今までみたいに全体のパイが大きくなる状況ではないので、言う事やる事が無条件に成功するなんて事はありません。物事の成否を問うならば何もしない方が良い訳です。しかし全く動かないで批判するだけの人は単なる観客でしかない。同じ舞台に立ってから批判して欲しい。何もしないでの失敗は万死に値しますが、職員が挑戦して失敗したときは問題ないです。

10年前からマスメディアの取り上げた情報が話題にならなくなって来た。ネットワークの進展により、マスな情報より身近な人の口コミの方が影響力を持っています。
アップルの製品は新たな体験を売りこんできますが、最近の日系メーカーの製品は性能でしか売り文句が無い。性能はどこも似たり寄ったりなので、決定的な売り文句にならない事に気付いていないのです。
ゆるい参加からファンとなり、ロイヤルカスタマーとなり、エヴァンジェリストとなるようにする事が必要です。
武雄市の職員には全員にFBアカウントを持たせて、勤務中もやらせています。ただ、単なる市の情報ではなく、市での体験を載せろと言ってます。職員のFB発信により武雄市のファンを増やす訳です。
 ただ、デジタルはアナログの補完でしかない。例えば従来の広報紙では評価が職員に伝わらないが、FBだとリアルに反応が返るのが職員の励みになっています。

日本人は考え過ぎで行動が無い。私は深く考えないでとにかく出す、だめなら取り消す。そしてホラを吹く、しかし言い続ければ実現します。
 武雄市では、市長はCEO兼会長であります。そして、副市長が社長であるが代表権がない。
 業務執行は副市長を頂点とするピラミッド型構造のラインで処理をするが、組織の外との関係や組織内でも樋渡市長が自由に刺激を与えることで 職員の意識の変化を起こし、全体として変革を進める体制である。職員ができないことを、市長がやる、という体制です。独裁 すれども統治せず、なのだそうです。選挙で市民に選ばれたのだから、独裁させてくれと言いたい。期限付きの独裁なのですから。施策が間違っているならば選挙で選ばなければいい訳だから。
首長は、4年間何もやらないければ無難に次の選挙に当選するかもしれない。何もしないのが一番いいということになるが、そんな多くの失敗をしている私を武雄市民は支えてくれているわけです。

 みんなが知っているエリア、地理的にも日本の真ん中。今、求められているのは連携、それと共感、口で伝える、アクション、発信、共感、で日本を引っ張っていってください!

  


Posted by かるの at 08:06Comments(1)受講日記

2012年07月21日

旭化成講座「感光性樹脂~週刊誌から半導体まで」7月11日

講師:旭化成マテリアルズ 富田宏朗氏


※以下は聞き書きであり、全てを網羅している訳でなく、聞き間違いなどもある場合があります。ご了承ください。

 旭化成は光で印刷版を作る技術を開発、週刊誌や半導体、プリント基盤、光を当てると固まるマニキュア、虫歯の充填剤なども感光性樹脂を使って作られる。
 感光性樹脂の特徴は①室温でも固まる②光が当たった所だけ固まるという点である。

 週刊誌に使われる質の悪い紙でも安定した印刷品質が得られる。
 印刷は必要な所だけに使えることから、印刷以外の製造現場に広がりつつある。

 ①マスクから同じ物が複写できる。(印刷・プリント基盤・LSI)
 ②室温で反応する(光硬化マニキュア・虫歯充填剤)
 ③短時間で反応(写真)
 ④光を当てなければ安定して保管できる。
 ⑤光を使うので拡大・縮小が容易。

 感光性樹脂は「二重結合を持った樹脂」と「光重合開始剤」を含む。プラスティックは重合反応である。
 最近はフォトマスクではなく、レーザーで感光性樹脂に直接書き込むダイレクトイメージングがある。

 近年の半導体は小型化の為に、基盤が重層的になっており、8~10階建てが主流である。i-phoneは10階建て。このように、複雑な構造により信号が同時に伝わらない事による不具合が出てきている。これを解消するためには、技術的なブレイクスルーが待たれる。
  


Posted by かるの at 08:16Comments(0)受講日記

2012年07月08日

「真野文二と沼津兵学校」平成22年3月27日

講師:鈴木一義氏(国立科学博物館 主任研究員)樋口雄彦氏(国立歴史民俗博物館 総合研究大学院大学 准教授)


※以下は聞き書きであり、全てを網羅している訳でなく、聞き間違いなどもある場合があります。ご了承ください。

 西洋では神が造った世界をどう理解するかが科学であった。日本ではそれが確立されていなかった。
 日本では実学としての技術があり、既に農学の本として流通していた。それらはオランダを通じて欧州へと伝えられた。
 中国はあくまでも記録のみであり、構造を理解してまでのものは少ない。

 伊能図が素晴らしいのは、フランスで求められた地球の大きさを日本地図を作る事で検証した事である。更にそれは一部のエリートだけではなく、多くの人によって行った事でありながら精度が落ちていない事である。

 田中久重らは見よう見真似で蒸気船を造った。20馬力程度のエンジンであったが、シーリングが出来ていなかったので、長崎に来ていたカッテンディーケという技師に見せ、彼が修理してみると設計通りの出力となった。これにはカッテンディーケも驚愕した。

 江戸開城の前、抵抗すべしという声が多かった。その際に急進派を抑えるために真野肇は動いていた(江原素六なども)。
 明治史料館には江原素六、父・子が死んだ時の弔辞が残っているが、それには真野のものがある。
 徳川家駿府移封により、真野肇は子・文二と共に兵学校で学ぶ事になるが、将校よりも小学校の教師になる事を選ぶ。兵学校が閉鎖された後の集成舎では教師となる。明治7年には東京へ。陸軍の中の数学教官、その後、海軍に。
 東京農大はその前身は育英校といい、静岡に移った幕臣子弟の教育機関であり、校長は榎本武揚であった。その部下に真野の名前がある。

 日本で最初に作られた数学の学会には真野の名前がある。
 真野家の祖先は織田信雄に仕え、その後、徳川家に旗本として仕えた。
 真野文二はキリスト教に入信したが、父である真野肇は大きく嫌っていた。葬儀の方法を巡って対立したという。
 昭和14年、沼津兵学校70周年を祝して真野文二が招かれ、講演を行った。
  


Posted by かるの at 08:17Comments(0)受講日記

2012年06月30日

旭化成講座「これからの住宅に求められる環境性能」6月13日

講師:旭化成ホームズ住宅総合技術研究所 築山裕子氏


※以下は聞き書きであり、全てを網羅している訳でなく、聞き間違いなどもある場合があります。ご了承ください。

 CO2は温室効果ガス排出量の約90%。中国・インドの排出量が急激に伸びている。
 日本は90年比で横ばいである。産業部門のCO2は90年比で減っているが、家庭部門が増えている。

 住宅のエネルギー消費で一番大きいのは照明や家電である。冷房は3%、照明は35%、暖房は27%。
 省エネとは年間を通して削減する事。節電はピークカットが目的である。夏は13時~16時、冬は夕方以降がピークになる。
 世帯別エネルギー消費量は90年と余り変わっていないが、単独世帯が増えた事により総世帯数が増えてきているので、総量が増えている。
 トップランナー制度とは、商品化されている製品の内、最も優れている機器の性能以上にする考え。買い替えで省エネを図る発想もあるが、実際の所、前の物より大きい物を求める心理が働くので必ずしも省エネに繋がるかは難しい。

 自然の力で有効に活用する。断熱・蓄熱・開口部の計画など、建物の性能や住まい方で決まるものも。
 遮熱ペアガラスは日射による流入熱量が高断熱ペアガラスの約3分の2。
 大きな窓がある部屋で、夏の14時に窓から入る日射量は小型石油ストーブ(1500W)に匹敵。
 夏に流入する熱は窓が71%、冬の流出は48%、外での遮熱が有効。

 日射を伴う部屋では高断熱ガラスと外部遮蔽。衝立を用いて人のいる所に風を導く事も有効。人は空調よりも自然風を取り入れると快適と感じる範囲が拡大する。
 温度差を利用した通風が行える窓の配置。
 冬は南面に大きな窓を設け、床面に蓄熱できる素材を用いる事も有効。
  


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2012年06月21日

旭化成講座「光と暮らし」6月20日

講師:旭化成ホームズ 菅野晋氏


※以下は聞き書きであり、全てを網羅している訳でなく、聞き間違いなどもある場合があります。ご了承ください。

 虹には主虹と副虹があり、水滴に光が屈折し反射し屈折して紫40度・赤42度で出ているのが主虹であり、水滴に光が屈折し反射し屈折して反射して紫54度・赤50度で出ているのが副虹である。

 眼には光を感じる錐体細胞の中の物質・ヨドプシンに青・緑・赤に吸収特性がある。この物質はビタミンAを主構造とした物質である。

 金色・ピンクは存在しない色である。
 脳jは色そのものを感じている訳ではなく、その色の周囲の色の様子に影響される。

 建築家・ルイス=I=カーンは「光が無い状態と暗闇の無い状態が光の無い状態である。」と述べている。
 画家は影から描く事で光の場所を決める。

 居間の照明は200ルクスなどと、Jis規格により定められている。
 日本の世帯当たりのエネルギー消費は諸外国より少ないが、照明に関しては高く日本住宅では照明に使用する電力が16%を占める。
 ビル管理法では750ルクスと定められている。
 曇天の自然光では38000ルクスでも明るく感じないのは、光の量が多いのが照度であるから。光が多ければ物がハッキリ見えるという訳ではない。
 
 メラトニンとはビタミンEの二倍の高酸化作用、美白、生体リズムの調節など、体に良い物質であるが外部摂取には副作用があり、体内で作らねばならない。
 夜に強い光を浴びるとメラトニンが分泌されないため、不眠の原因となる。それは明るすぎる住宅照明ではないかと思われる。それによる経済損失も生じている。眩しさは身体にも負担である。
 明るすぎ・白すぎる照明を高齢者が好むのは、家電メーカーの宣伝の刷り込みである。
 食事は周囲が暗い方が美味しく感じる。明るいと早食いになり、ファストフード店を見ればわかる。

 真の快適性を追求するには規格に準じるだけでなく、人が自ら選択・調整することで得られるものではないだろうか。人間工学の見地から光を考える必要がある。それには「照度から輝度」「対比の効果」「順応の効果」が必要である。
 JIS規格に当てはまらずとも、人の心地よさを数値化し、それを元に設計。

  


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2012年06月16日

旭化成講座 「私たちの生活を変える膜分離技術」② 6月6日

講師:旭化成 後藤久寿氏


※以下は聞き書きであり、全てを網羅している訳でなく、聞き間違いなどもある場合があります。ご了承ください。

 高分子材料とは、分子量が数万~数百万もの物質で、ポリエチレン・アクリル・フッ素樹脂などである。濾過膜は多くが高分子材料から出来ている。

 高分子材料にはポリサルホン(PSf)がよく使われる。耐熱性があり、医薬・半導体分野の濾過に使われる。溶液ととしてN-メチル-2-ピロドリン(NMP)を用いる。

 濾過膜の作り方→①高分子材料と溶媒を混ぜ均一にする。②高分子材料が入った溶媒をガラス板に乗せ、コーターで引き伸ばす。③水に溶けない高分子材料が水中に漬かると一瞬で凝固して高分子材料膜が出来る。
 これは水に触れたPSfからNMPが抜けて凝固するためである。
 水に近い所は速く凝固し、水に触れるのが遅い所はゆっくり凝固するので、中空糸膜は菱型の穴が出来る。これを利用して分離の速度を変える事で用途に応じた穴径に出来る。

 膜分離の未来としては、バッテリーセパレータ・水素分離膜・エタノール分離膜など。

 血液製剤の製造時には病原性のウィルスを不活性化する必要がある。以前は加熱によって行われていたが、熱により蛋白質が変性してしまう恐れがあるので、現在は膜分離技術が主である。
 しかし、製剤に必要とするグラブリンとウィルスは大きさが近いので高い精度が必要とされる。
  


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2012年06月05日

旭化成講座 「見えない光が世界を変える」 5月16日

講師:旭化成エレクロトロニクス 永瀬和宏氏氏


※以下は聞き書きであり、全てを網羅している訳でなく、聞き間違いなどもある場合があります。ご了承ください。


 ソニーのVAIOはアナログとデジタルを融合する、という意味。
 旭化成は月産一億個のアナログ混載LSIと磁気センサーを製造している。携帯電話には高周波通信LSI、GPS受信LSIなど電子コンパスは世界シェアトップである。

 遠赤外線は表面まで。光は波長の減衰が少ないため、データ通信に使われる。
 赤外線センサーは発信してそれを反射するものを検知する物と、人が発している赤外線を検知するものがある。
 人体からの赤外線は4μm~10μm、人はおよそ100wの熱を放射している。

 旭化成は室温で作動する量子型センサーを世界初で開発。量子型は赤外光を直接電気信号に変換する。そこから、フォトダイオードやフォトコンダクティブ。特徴として小型・薄型・高速応答・省電力である。バリア層を入れることで電子の動きを制御する。
 量子型は一瞬で温度測定が出来る。

 従来の焦電センサーは赤外線の変化に対しては出力しないため、ゾーン分けをして検知している。しかし旭化成のセンサーなら静態検知が出来るので、会社などのPCモニターに用いれば、席を離れたときにモニター画像を変えて情報漏洩を防ぐ、と言うことが出来る。

 シリコンウェハーは可視光は通さないが、赤外線は通す。全ての物体はその温度に応じた光を放射している。シリコンはダイアモンドと結晶構造が同じ。

 電気抵抗の抵抗率は18ケタの差がある。半導体としては元素としての半導体、化合物としての半導体、酸化半導体がある。各々の特性によって素材を変える。
 不純物の無いシリコンは電子を共有して結合している。そこにリンを入れると自由に動く電子が現れる。これがN型半導体である。ホウ素を入れると電子が足りない状態になる。これをP型半導体である。
 伝導帯と価伝導帯の間をバンドギャップという。このギャップが小さいほど、小さなエネルギーで伝導素子になる。用途に応じてバンドギャップを選んだ素材を用いる。

 赤外線で二酸化炭素濃度を測る。人の呼気には3%~6%の二酸化炭素が含まれている。閉め切った部屋で人が活動すると0.1%程度になり、建築基準法・ビル管理法では0.1%以下にするように定められており、労働安全衛生法では0.5%以下にするように定められている。自動車の社内で眠くなるのはこの影響か。
 赤外線には二酸化炭素が吸収される部分があり、それを用いて二酸化炭素センサーに出来る。ストーブ・換気扇・エアコンなどに自動検知させる。PCやスマフォにも。
 二酸化炭素を空気質の指標にした空調の効率化により省エネを図りたい。

参加者からの提案
「体温を検知して自動制御する扇風機が開発できないか?エアコンはそういった機能があるが、扇風機に無いので。」
  


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2012年06月02日

私たちの生活を変える膜分離技術 5月30日

講師:旭化成 後藤久寿氏


※以下は聞き書きであり、全てを網羅している訳でなく、聞き間違いなどもある場合があります。ご了承ください。

 分離膜には平たい平型と中空糸膜がある。中空糸膜は直径1mm程のストロー状の管で、周りに微細な穴が開いている。その穴は0.5μmだが、一分で100cc程の水を通す。
 集めた物を用途に応じた使い分けを行うためにモジュール化しておく。6インチ×2mのもので100㎥/日
穴径100nm(下水浄化・ワイン、ビールの清澄化)、50nm(ウィルス除去)、1nm(人工透析用)
 1960年、非対称膜をローブが開発し工業化に動き出した。非対称とは緻密な穴のある層と強度を保つ層を合わせたものである。

 自動車塗料の回収、工業用酵素(洗剤など)の精製、ビールなどの清澄化である。以前はビールの清澄化には珪藻土を用いていたが、現在は膜分離である。
 半導体製造にはシリコンウェハーを加工の度に薬剤で洗い、その後、超純水で洗う。その水は膜分離で製造する。

 水不足の懸念から、下水処理をそのまま浄水に処理できないかと検討されている。その際に懸念されるのがクリプトスポリジウム・ジアルジアといった病原性原虫である。これらは塩素に強く、水道水に含まれている塩素の100倍近くでも耐性がある。そこで期待されるのが膜分離であり、これらより小さい膜を用いれば除去できる。

 2025年には世界各地で水不足が深刻になってくると思われる。需要に対しての供給力の割合を水ストレスといい、欧州各国、日本はストレスは低いが、アメリカ、オーストラリア、アフリカ各国では高い。日本は10%であるが、降水量が多いものの、人口当たりでは低い。日本国内での水の使用割合は農業6割、工業2割、家庭2割である。6割の農業用水を用いても食糧自給率が4割であり、多くの食料を海外に求め、その食糧を生産するに当たって水が使用されており、海外の水を輸入しているともいえる。

 シンガポールは一日に13億リットルの水使用量のうち、半分をマレーシアからの輸入に頼って来ていたが、2011年に期限が切れ更新には今までの100倍の費用を求められた。そこで、下水を浄化して使用する事にした。海水の淡水化よりコストが安いのである。

 膜処理は従来の水処理に比べ安全性に優れ、効率的である。膜分離の水処理のエネルギーを2~4とすると、蒸留には10である。

 食品工場では加熱や薬品処理では、食品の素材が変化してしまうので、膜分離が有効である。膜の穴の大きさによって要望に沿った分離が出来る事も大きい。

 確率の濾過から、確実の濾過へ。
  


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2012年05月29日

スルガ銀行のなりたち 2011年2月23日

講師:スルガ銀行取締役 内山義郎氏


※以下は聞き書きであり、全てを網羅している訳でなく、聞き間違いなどもある場合があります。ご了承ください。

 黒船来航は創業の原点。
 スルガ銀行創業者である岡野喜太郎の父・弥平太は下田奉行所に務めに出た。どうしても黒船が見たかったという。

 明治17年、青野が暴風によって塩害となって飢饉になり、餓死者が出る事態となった。当時、韮山師範学校に学んでいた喜太郎は退学して郷里へ帰り、復興に尽力する。
 翌年は豊作となったが、飢饉に備えるために貯蓄組合を設立する事にする。次第にこの運動は拡がり、「根方銀行」となる。資本金1万円は当時の銀行の中で最も少ないものであった。明治45年には通横町に本店を移し、「駿河銀行」となる。

 駿東実業銀行の行章はカクジツという意味。
 現在の行章は富士山の中に波で、取引先・株主・行員により荒波を越える、という意味である。

 関東大震災の時、金融機関には支払猶予令が出た。これは非常時ゆえ顧客の預金払い出しを断れるというものであった。
 しかし、静岡県は関東地方より先に解除となったため、資金が足りなくなった事があった。スルガ銀行は銀行としての預金を東京の古河銀行に預けていたからで、古河銀行からは引き出せない事になったからである。
 岡野は日銀に掛け合い日銀名古屋支店から現金を引き出し、札束の入ったトランクを馬にくくりつけて、そのまま神奈川県まで向かい、現金の引き出しを受け付けた。すると、引き出しではなく預け入れを申し込む人が多かった。
 スルガ銀行では前々から通帳や帳簿、顧客名簿を二部作っておき、別々の場所に保管する事により焼失を免れていたのであった。その時の信用で、今も神奈川県の自治体の指定金融機関となっている所が多い。
 岡野は震災で妻も失ったが、それでも陣頭指揮を執り続けた。

 「差」より「違い」の創造。
 「私の一生は青野の村人、あるいは駿河伊豆相模の事業家にあたかも下駄の鼻緒をすげ変えてやってこられたものだとしみじみ思うのである。」--岡野喜太郎
 First entry is forever
  


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2012年05月15日

清水町歴史講座 第二回 2月25日

2月25日 遺跡から見つめる清水町の歴史


 ※以下の文面は聞き書きであり、講座の全てを網羅しているわけではありません。聞き違いによる所  もあるかもしれませんので、その辺り、ご了承ください。
2月25日 遺跡から見つめる清水町の歴史
講師:珠流河国文化財調査研究所 小金沢保雄氏


 清水町最古の遺跡は矢崎遺跡

 弥生時代中期の遺跡に狩野川流域に外原・矢崎・清開・北ノ前・戸田遺跡がある。戸田遺跡には「王」と書かれた土器が出土。緑釉の土器も。
 弥生時代後期には環濠と方型周溝墓が見られる湯川・坪ノ内遺跡。

 古墳時代前期には恵ヶ後(えがうしろ)・谷口・大亀・熊ノ免遺跡。
 古墳時代後期には伏見古墳群・恵ヶ後・谷口遺跡。伏見古墳群は6基あったとされ、ガスタンクの傍に4号墓が保存されている。

 奈良時代には熊ノ免遺跡があり、祭祀用の遺構が見られる。

 平安時代には恵ヶ後・谷口・瀬戸川・熊ノ免遺跡
 古代の道路遺構が見られる。7~8世紀末、足柄路が富士山噴火により閉鎖され、箱根路が開かれた時の道か?真っ直ぐ伸ばすと三島の国分寺に当たる。両側に溝がある6mの道。溝から銅鏡とU字型の鉄製品、馬の歯が出土している。

 鎌倉時代には恵ヶ後・谷口遺跡。
 古代から中世の境界「黄瀬川宿」と頼朝。頼朝が鎌倉以外で政治を行ったのが黄瀬川である。
 恵ヶ後遺跡で出土した陶器の中には、当時の鎌倉や北条氏邸などでしか出土していない種類が出ている。武士でも有力者か?
 挙兵前の黄瀬川宿で義経が韮山の頼朝に会いに行こうか悩んだという。
 八幡神社の対面石は義経ではなく政子ではないか?伊豆山神社に預けられた政子を頼朝が呼んだという話が曽我物語にある。
 黄瀬川宿は京と東国の情報が集まる所として頼朝が重視していたのではないか?
 富士川の合戦も陣が黄瀬川か?
 黄瀬川宿の機能は頼朝の挙兵から頼朝の死去まで。
 鎌倉時代前期の役所と倉庫群として戸田・桜田遺跡。両遺跡とも北条氏の直轄地としての倉庫か?

 戦国時代には岩崎屋敷跡・杉山屋敷跡

 江戸時代には戸倉城址が江戸城築城の石丁場であった。
  


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2012年05月10日

富士常葉大学 旭化成講座 「現代社会と科学技術」 5月9日回

5月9日「電池技術の変遷と私たちの暮らし リチウムイオン電池が変えるこれからの世界」


講師:旭化成 吉野研究室フェロー 吉野彰氏


 ※以下の文面は聞き書きであり、講座の全てを網羅しているわけではありません。聞き違いによる所  もあるかもしれませんので、その辺り、ご了承ください。
   この項では、「リチウムイオン二次電池」を「LIB」と略します。

 社会の変革は30年周期で循環すると思われる。1965年はナイロンを始めとする素材の変革、1995年はITの変革。では2025年はどうなるのか。
 1981年にIT社会の到来を見通して新型二次電池の研究を始めた訳ではないが、その予兆は感じていた。

 ITを支える3種の神器として、①眼(液晶ディスプレイ)、②頭脳(LSI)、③心臓(大容量二次電池)
 エジソンの時代から変わらずに使われている三種の鈍器(?)とは、銀塩写真(イーストマン&コダック発明)、レコード、二次電池(ニカド電池はエジソン発明)は如何に姿を消したか?

 銀塩写真はデジカメの登場により駆逐されたと考えられているが、デジカメ登場当初はむしろ売り上げは伸びていた。それは当初のデジカメの画素数が少なく品質にはまだまだ銀塩写真に優位性があった。
 富士フイルム某役員曰く、
 「銀塩写真事業は或る製品が出たその日に消えて無くなっていった・・・。」
それは、カメラ機能付き携帯電話であった。
 
 シャープが携帯事業に参入した際、後発であったため他メーカーとの差別化を図り、レンズを付けた。そもそも携帯電話にはレンズさえ付ければカメラになりうる機能が既に用いられているからである。
 しかし当初は全く売れなかった。開発担当者は吊るし上げとなり、キャリア・広告代理店を交えての対策会議が開かれた。なんでこんな物を作ったのかと詰め寄られた開発担当者はとっさに
 「写真撮ってその場で送れるんです。」
と答えた。こうして「写メール」というキャペーンが展開されると共に、「写真はプリントするもの」という概念が無くなってしまったのであった。
 富士フイルム某役員曰く、
 「単なる技術変化ではなく、価値観の変化が忍び寄っていた。」
 イーストマンコダックという銀塩写真フィルムの発明し、その分野では世界最大の企業が倒産したのも価値観の変化を読み取れなかった…。

 コードレスとは電源コードを無くす事、ワイヤレスとは通信ケーブルを無くす事。
 新型二次電池の研究に入った1980年代の頃、
 「今はコードレスが話題になっていますが、この先はワイヤレスの時代が来ます。その時には二次電池が更に重要になりますよ!」
との声を聞いた。

 
「負極をカーボンとする新型二次電池研究の歩み」

①東レ   「高分子焼成体で負極」         →審査請求されず、研究中断。
②鐘紡   「低結晶、高表面積炭素を負極」   →キャパシタ的特性を追求も、LIBには至らず。
③三洋化成「炭素負極、カルコゲン正極」     →概念まででLIBには至らず。
④三菱油化「中結晶性炭素で負極」         →ソフトカーボンを継続的に開発
⑤旭化成  「特定炭素負極、Li含有酸化物正極」→LIBの原型を開示、製品化へ。

しかし、当初は特許が通用したが、「特定炭素負極」という文言からカーボンメーカーがあっという間に素材技術を更新してしまった。
最初に魚を釣り上げた人は必ず憂き目を見るので、対策を講じておく事。

 ワイヤレス給電技術には、①電磁誘導型、②電場磁場共鳴型、③電波受信型
 リニアモーターカーは浮上しているのでワイヤレス給電技術が不可欠。現在のリニア実験車輛には車両にディーゼル発電機を設置しているが、実用化の際にはワイヤレス給電が行われるであろう。
 高速道路にも、車線にワイヤレス給電できるようにしておき、そこを走った車両がそのまま充電でき、ETCで充電分の決済も行うようになる。

 今まで、LIBの市場はIT関係の小型バッテリーが主であったが、これからは電気自動車などになっていくであろう。その革命的普及が2025年であるかもしれない。


  


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2011年06月25日

スルガ銀行 D-loboセミナー 二千年前の夢

 6月24日に沼津市上土にて行われたd-loboセミナー「2000年前の夢 古代アレクサンドリアの天文学 プトレマイオスからヒュパティアへ」を聴講。

※聴き書きですので、全てを書き記した訳でないのと正確でない点もあります。ご了承ください。


 現在のアレクサンドリア図書館


 プトレマイオス一世はアレクサンダー王に従っていた将軍の一人で、王と共に戦いに赴いていたが、王は遠征先で死亡。王はアレキサンドリアを見ぬまま亡くなったが、プトレマイオスは王の遺体を持ちかえりアレキサンドリアに安置したと伝わっている。しかしその遺構などは確認されていない。
 プトレマイオス一世はアレキサンドリアにてプトレマイオス朝の王となる。
 プトレマイオス朝時代には、現在のアレキサンドリアの湾の中に多くの船着き場があったという。

 科学者のプトレマイオスは王族と言うわけではない。

 エジプト、デンデラ神殿にはエジプトの星座が描かれている。
 バビロニア人たちが考えた星座はフェニキア人の航海を通じてギリシアへ伝わり、ギリシア神話へと結び付けられ現代に通じる星座が作られた。その後、プトレマイオスが「アルマゲスト」に48星座を記載。現在の半分なのは北半球で見える範囲での星座だからである。
 これは現在の天文学者が星の位置を定める時の目安となっている。

 プトレマイオス3世はシリアへ遠征し、妻のベレニケは髪を切りアフロディテの神殿に捧げた。
 戦いに勝利し戻って来たプトレマイオスは神殿に行くと、髪が無くなっていたのを質すと、髪は天に上ったという。これが髪の毛座であるという。

 1928年、国際天文連盟は88星座を定めた。プトレマイオス星座は残され、アルゴ座は4つに分割された。
 古代世界の星座はプトレマイオスによってまとめられたのもアレキサンドリア図書館の存在が大きい。
 「アルマゲスト」は後にアラビア語に訳され、更に欧州諸言語に訳された。その際、アラビア語の音がそのまま用いられたため、1~3等星の69%はアラビア語系、ギリシア語系は9%、ラテン語系は8%である。



 ヒッパルコスは紀元前2世紀頃のギリシアの天文学者。星の等級を分類し、バビロニア人の観測データや自らの観測を元に星の動きを観測した。人工衛星の名にもなっている。

 天動説自体は間違った考えであったが、天の動きを客観的に観測すれば自然に導かれる考えである。
 円・球は完璧なものであるという考えがあった。これが天動説の由来となった。アリスタルコスは地動説を唱えたが、理解は得られなかった。
 当時の天体観では天動説もそれほど問題にならず、千年間主要な考えであった。しかし天体観測が進むに伴い、天動説では解明できない問題が現れた。そこに現れたのがコペルニクスであったが、彼もまた「天動=円」という思考からは抜け出る事が出来なかった。それにはケプラーを待たねばならない。
 エカントとは、惑星の動きを天動説で解説するために、中心を二つ設けて惑星の動きを説明しようとした概念である。惑星の動きは楕円であるため、便宜的な考えであったが、かなり真に迫っていた考えでもある。

 ヒュパティアはアレクサンドリア最後の数・天文・哲学者であると言う。
 彼女が生まれた三世紀頃、アレキサンドリアはローマの属領となり彼女の教え子であるオレステスが長官であったが、彼女の甥であるキュリロスが当時台頭しつつあったキリスト教司教で、オレステスとキュリロスとの抗争に巻き込まれキリスト教徒に殺害されてしまった。
 月面のクレーターに三名の名が付けられている。
 アレキサンドリアは次第に知の集積と言う機能は衰退していく。


 天文学者は星を見ているだけでなく、宇宙・星・生命の起源を求め、我々人類が何者なのか、そして未来はどうなるのか、という事を求めている。
 地球外生命体が発見されたとしても、人類は広大な宇宙の一員である事を自覚し、発見されないにしても、広大な宇宙の中に生きている生命としての尊さを自覚する。
 その問いは古代のアレクサンドリアから始まったのである。
   


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2011年06月14日

日大講座・南米の日系人社会 聴き書き

 ※この文は先日行われた日大市民講座「南米の日系人社会」(講師・福井千鶴氏)の聴き書きです。聴き書き故、完全ではありませんのでご了承ください。
   

 日本人村的移住地・集団移住で入植。戦後の入植が多い。ボリビア、パラグアイなど。
 自然発生型移住地・労働者として移住した人が独立し、自然発生的に集落形成。ブラジルなど。
 都市型日系人社会・前者の移住地から都市部に移り住む。

 沖縄の戦後移民が多いのは、沖縄戦により壊滅的な被害を受けたのと、農地がアメリカ軍に接収されたため、苦境にあった時にボリビア在住の日系人が多くの支援物資を送った。
 ボリビア政府は50町歩の土地を無償で提供するという条件で移民を募集したのでボリビアに渡る人が多くなった。
 しかし与えられた土地は害虫なども多く生息する原生林で、この開拓には困難を極めた。進まない開拓に現地人からは「怠けている」といわれる事もあった。
 屋根がある家はまだマシで、柱しかないという家も。
 どんどん離れる人も増えたが、耐え抜いた人は離れた人の土地を買う事で農地を増やし、現在では500町歩にまでなった人も居る。ある意味、耐え抜いた人は最も貧しく逃げ場が無かった人であった。
 現在では入植地は殆ど農地になっているが、一部に開拓時の苦労を偲ばせる原生林を残している。
 一世の人は現在でも日本人としての意識が強く、日本のテレビ番組を見、日本の暦や祭事記などの日本人的風習で生活し、日本舞踊や和太鼓など日本の文化を伝えている。

 農牧協同組合や日ボ協会といった組織的な運営が日本人移住者の強みとも言える。
 各移住地では日本人学校が運営され、中学二年相当の教育を行っている。日本語とスペイン語の授業を併設。

 近年では日系人のみの学校運営が難しくなっており、現地の人も入っているが現地では家事の類をメイドにさせる事が多く、掃除などの学校教育に対して抵抗を見せる人も多い。

 コロンビアでは個人的移住の人が多い。1915年、パナマから水野光次郎という人が最初と言われている。その後、水野の知人6人が入国したが、いずれも独身男性であったので現地の人との混交が進み、水野の直系の人でも一見すると日本人的な顔立ちではない。同時期に移住者が多かったアラブ系の人との交わりが多かったという。
 コロンビアでは野菜を食べる習慣が余り無いが、日系人の作った野菜は品質の高さに定評がある。

 ブラジルの日系人社会では子弟に対して教育熱心であるが、大学に進学して都市部に出てしまうと戻って来なくなってしまうという。
 大規模な農場ゆえ兄弟で分割相続させる訳にはいかず、長男以外は職を求めて出て行かざるを得ない。
 農場に残った人も、大規模農場で殆ど他人とのコミュニケーション不足と単純労働から薬物依存に陥る人も多いという。

 ブラジルの日系人社会は150万人以上であるが、戦前の入植者と戦後の入植者の世代断絶、3世以降の現地化が進展、日本人としての血統を持つ人の減少など、互いの意見の連携がとれていない。

 南米諸国では日本に魅力を感じない若者が増えている。日系人として日本企業に入ったとしても正当に評価されないと感じられているので、これにより多くのビジネスチャンスが失われている。

 ブラジルのトメアス移住地ではコショウ栽培が行われていたが、洪水によって根腐れ病が発生し、移住地が立ち行かなくなると思われた。そこで、現地の日系人がアマゾンの先住民の採集生活に着目し、森林の中の植生に近しい農法を考案した(アグロフォレストリー)。毎年・数年・十年・数十年で収穫できる物を組み合わせて生産し、単一栽培では出来なかった持続的な生産が可能となる。
 そしてこの農法を、無秩序な焼き畑に走る人に伝える事により、アマゾンの森林も守ろうという試みが日系人が出た事は誇りであるとも言える。
  


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2010年08月23日

カムイスペースワークス代表・植松努氏の講演

 三島市商工会議所青年部が主催した
 『どうせ無理を世の中から一掃したい。人の持つ無限の可能性 大人が夢を持つ大切さ』
と題したカムイスペースワークス代表・植松努氏の講演を聴いてきました。

 カムイスペースワークスに関しては、北海道でロケット開発を行っているという事をテレビなどで見た事がありました。今回の講演はロケット開発の話を期待していきましたが、それ以上に含蓄ある話を聴けました。
 以下は講演内容の聴き書きから。

 実家は北海道芦別市で植松電機という炭鉱で使われるモーター修理業を行っていたが、炭鉱は閉山となり1970年代に自動車電装品の修理に転じた。しかしそれもアッセンブリ交換が主流になると仕事が無くなり、2000年になってからは産業廃棄物の除鉄に使うショベル用マグネットの開発に成功、多くのシェアを獲得した。
 ここから一生続く仕事は殆ど無い、仕事が無くなり暇になったら本を読み、常に仕事は作りださねばならない。

 これは祖母の言葉があった。樺太で商売を営んでいたが、ソ連の侵攻によって全てを失った。
 「金は下らん。一晩で価値は変わる。金があれば本を買って頭に入れろ。」
とよく言っていた。

 対案無き「我慢」は諦めである。本当の我慢は機会に備えておくことである。

 小学生の頃は、自分で造った潜水艦で世界を旅する事であった。
 紙飛行機作りに夢中になり、本屋で紙飛行機に関する本を買うと、飛行機に関する基本的な事は全てそこにあった。航空宇宙に関する仕事に就きたいと思っていると教師に思いっきり否定された。しかしそれは教師が飛行機の事を知らないからと気づく。
 憶測の進路評論に負けてはならない。

 飛行機の事はテストの点にならないから止めろと言われ続けていたが、大学に入ると全ての事がそれまで止めろと言われ続けてきたことであった。
 その結果、飛行機を丸ごと設計できる仕事に就いた。戦闘機、宇宙船、新幹線も設計した。しかしその仕事も、周りには飛行機を全く知らない人ばかりである事に嫌気がさし、辞めてしまった。

 ロケットを作るために必要な材料はホームセンターにも売っている。人工衛星に必要な電子部品はゲーム機の中に入っていた。
 宇宙開発は決して国家レベルの物ではない、工夫すれば良いのである。

 カムイ型ロケットは燃料にポリエチレンを使用。ポリエチレンはレジ袋の原料であったが、昨今のレジ袋の使用を控えるようになって来てから余り気味である事に着目した。元々燃えにくい物のなので燃焼には苦労したが、安定した出力を得られるので安全であり自宅のすぐ側でも実験できる。

 宇宙ごみを片付ける仕事にビジネスプランがある。

 国家主導の世界初は無い。全ては個人の好奇心による研究から始まる。
 
 子供にペーパークラフトを教えていると親の中には子供だましと言う人も居るが、ペーパークラフトは産業の基本である。自動車のプレスもファッションブランドの服も一枚の板なり布を如何に組むかであり、製図の基本にもなる。
 プラモデルを製作する事で、形を見比べて実物の設計意図などを読み取る事が出来る。
 
 言葉で人の可能性を奪うのは殺人に等しい。その言葉が「どうせ無理、自分には出来ない」などであり、こう言われ続けるとそれを他人にも行うようになる。
 失敗を許せないと失敗が選択肢に入らないため、希望的観測だけになってしまう。
 失敗はダメだったというデータの一部に過ぎない。

 住むコストを1割に。食うコストを半分に。学ぶコストを0に、という理想とした大学を設立。そこで得られるノウハウを発展途上国に提供したい。
  


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2010年08月23日

カムイスペースワークス代表・植松努氏の講演

 三島市商工会議所青年部が主催した
 『どうせ無理を世の中から一掃したい。人の持つ無限の可能性 大人が夢を持つ大切さ』
と題したカムイスペースワークス代表・植松努氏の講演を聴いてきました。

 カムイスペースワークスに関しては、北海道でロケット開発を行っているという事をテレビなどで見た事がありました。今回の講演はロケット開発の話を期待していきましたが、それ以上に含蓄ある話を聴けました。
 以下は講演内容の聴き書きから。

 実家は北海道芦別市で植松電機という炭鉱で使われるモーター修理業を行っていたが、炭鉱は閉山となり1970年代に自動車電装品の修理に転じた。しかしそれもアッセンブリ交換が主流になると仕事が無くなり、2000年になってからは産業廃棄物の除鉄に使うショベル用マグネットの開発に成功、多くのシェアを獲得した。
 ここから一生続く仕事は殆ど無い、仕事が無くなり暇になったら本を読み、常に仕事は作りださねばならない。

 これは祖母の言葉があった。樺太で商売を営んでいたが、ソ連の侵攻によって全てを失った。
 「金は下らん。一晩で価値は変わる。金があれば本を買って頭に入れろ。」
とよく言っていた。

 対案無き「我慢」は諦めである。本当の我慢は機会に備えておくことである。

 小学生の頃は、自分で造った潜水艦で世界を旅する事であった。
 紙飛行機作りに夢中になり、本屋で紙飛行機に関する本を買うと、飛行機に関する基本的な事は全てそこにあった。航空宇宙に関する仕事に就きたいと思っていると教師に思いっきり否定された。しかしそれは教師が飛行機の事を知らないからと気づく。
 憶測の進路評論に負けてはならない。

 飛行機の事はテストの点にならないから止めろと言われ続けていたが、大学に入ると全ての事がそれまで止めろと言われ続けてきたことであった。
 その結果、飛行機を丸ごと設計できる仕事に就いた。戦闘機、宇宙船、新幹線も設計した。しかしその仕事も、周りには飛行機を全く知らない人ばかりである事に嫌気がさし、辞めてしまった。

 ロケットを作るために必要な材料はホームセンターにも売っている。人工衛星に必要な電子部品はゲーム機の中に入っていた。
 宇宙開発は決して国家レベルの物ではない、工夫すれば良いのである。

 カムイ型ロケットは燃料にポリエチレンを使用。ポリエチレンはレジ袋の原料であったが、昨今のレジ袋の使用を控えるようになって来てから余り気味である事に着目した。元々燃えにくい物のなので燃焼には苦労したが、安定した出力を得られるので安全であり自宅のすぐ側でも実験できる。

 宇宙ごみを片付ける仕事にビジネスプランがある。

 国家主導の世界初は無い。全ては個人の好奇心による研究から始まる。
 
 子供にペーパークラフトを教えていると親の中には子供だましと言う人も居るが、ペーパークラフトは産業の基本である。自動車のプレスもファッションブランドの服も一枚の板なり布を如何に組むかであり、製図の基本にもなる。
 プラモデルを製作する事で、形を見比べて実物の設計意図などを読み取る事が出来る。
 
 言葉で人の可能性を奪うのは殺人に等しい。その言葉が「どうせ無理、自分には出来ない」などであり、こう言われ続けるとそれを他人にも行うようになる。
 失敗を許せないと失敗が選択肢に入らないため、希望的観測だけになってしまう。
 失敗はダメだったというデータの一部に過ぎない。

 住むコストを1割に。食うコストを半分に。学ぶコストを0に、という理想とした大学を設立。そこで得られるノウハウを発展途上国に提供したい。
  


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2010年07月20日

彦根 城めぐり 火縄銃サミット

 
前回の続き・・・。


 ひこにゃんの芸がどんなかは気になりつつも、火縄銃サミットを覗いてみる。

 京都女子大学教授・母利美和氏による「彦根藩の砲術」と題した講演内容。
 細川氏に仕えていた稲富祐直が関ヶ原の戦いの際には細川忠興の夫人、ガラシャを警護していた。にも関わらず石田三成の人質になるまいとガラシャが自害するに至り、ガラシャを守れなかったとして戦後に忠興から殺されそうになるも、祐直は逃亡し彦根辺りに潜伏していた時、彦根を領することになった井伊直政にその砲術の才能を見込まれて砲術指南役として登用されたのが彦根藩の砲術の始まりだとか。
 砲術は全国各地に伝承し、初めは10家ほどであったが、幕末近くには200家にもおよんだ。
 彦根藩では砲術を重視し、幕末になると江川英龍の元に砲術を学ばせに多くの家臣を派遣したという話も興味深かった。

 続いて、火縄銃の歴史を生かした町づくりをテーマにパネルディスカッション。
 先程の講演を行った母利美和氏をコーディネーターに、 国友鉄砲研究会 廣瀬一實氏・江戸幕府鉄炮組百人隊保存会 三瓶千詠氏・全国古式砲術鉄砲サミットin彦根実行委員会会長 杉本定幸氏がパネリストを務めた。
 ただ残念なことに、町づくりよりも火縄銃サミットを如何に開催するかという話に終始してしまって、楽屋話を聴いている感じになってしまった。なんでも、火縄銃とはいえ、発砲許可を警察から取らねばならないのだが、それが年々難しくなっているとのことである。

 翌日には総勢320人、23の火縄銃演武団体が駆けつけ、様々な演武を行ったとか。

 サミットは終了、彦根市を後にする前に、駅前のスーパーで弁当を買おうか入ってみると、入り口付近は「ひこにゃん」の土産がズラっと。
 

 派製品も出ているようです。別物のような気も…。


 「ひこねのよいにゃんこ」は居ませんでした。

  そんな事で彦根市を後にした。  


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2010年03月12日

海洋深度掘削調査船「ちきゅう」を見に行く。 講演会編

 後編の続き・・・

 「ちきゅう」を見学し、近くの会場で行われている講演会に。残念ながら途中からだったが、かなり興味深い話が聞けた。

 「地震予知」から「地震制御」へ、という話だったのだが、中央アジアのキルギスという国では地震制御の研究がかなり前から行われているという。
 旧ソ連の時代、核戦争が起きた時の通信をどうするかという研究から始まったそうだが、(核戦争が起きた段階で通信もクソも無いだろとも思うが)地上通信インフラも通信衛星も破壊された際に、地中を通じて通信を行う事を考えたらしい。そこで、地中にモールス信号を送るために電流を流すと、地震が起きたというののだ。
 しかも、入力に対しての出力は10万倍のエネルギーにもなった。(トランジスタもビックリだ)
 つまり、大地震が起きそうな所に電流を流すことで意図的に地震を起こして、大地震が起こる前にエネルギーを放出させて大地震を防ごう、という考えのようだ。ただ、どのように制御するかが課題だという。

 これは考えようによっては非常に強大な兵器にもなりうるのではないか。

 漫画「スプリガン」では龍脈と呼ばれる地球のエネルギーの通り道を刺激することで、世界各地で自由に地震や噴火を起こすという技術を巡って各国の軍が動く、というシーンがあるが、何となくそれを想像した。(これで富士山も噴火する)
 スプリガンに出てくる水晶の髑髏も一定の振動を与えると莫大なエネルギーを放出するという描写があった。これも似ている感じだ。

 地震も地球の新陳代謝の一種と考えれば、それが行われなくなったとしたらどうなるのだろうか?
 非常に気になる。

 余り知られてないのだが、1944年にも東海地方で大地震が起きている。
 戦時中ゆえ、報道管制によってこの事は知られてないのだが、記憶がある人はもっと語ってもらいたいと思う。




 講演のパワーポイントの写真で日本平から見た「ちきゅう」の夜景というのがあったので、暗くなってからも見に行ってみた。


 軽く「工場萌え」の要素もありそうです。


 船の巨大なクレーンが動いていました。

 このクレーンも船に据えられているものとしては最大の大きさ。



 三保半島の折戸側から見てみました。


 帰り、静清バイパスからも見えました。  


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