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2014年05月03日
長浜散歩 ①
旅の途中で長浜に立ち寄った。前々から歩いてみたい所であった。

駅名のステンドグラス

長浜はガラス産業があった所ではないが、観光施設でガラス細工を推しているからであろうか。
「子供に見せたくない本を入れるポスト」が!

以前、彦根にもあったので、滋賀県は多いのだろうか。
秀吉と三成の像

長浜城主となった羽柴秀吉が鷹狩の途中で休憩に入った寺にて、後の石田三成である少年が気配りある茶を淹れたという事で召し抱えたという「三献の茶」というエピソードにちなんだ像である。
長浜城大手門跡



これは駅から東側であるが、城自体は線路を挟んで西側にある。
この水路もかつての堀の名残であろうか。

長浜駅の正面通りにある旧開智学校

明治4年に滋賀で最初の小学校「滋賀第一小学校」が開校。その時は民家を用いていたが、明治7年に木造3階建、八角塔屋付瓦葺の新たな擬洋風の建築にて建てられ、開智学校と改められた。かつては時を告げる大太鼓が備えられていた。
その後、幼稚園や女学校となり一時は原型も留めない程であったが、平成12年に復元された。
現在は一階はレストラン、二階は展示室、三階は会議室として活用されている。
長浜の中心部・黒壁スクウェア一號館

北国街道と、長浜城から東に延びる大手門通り(美濃谷汲街道)との交差点は、江戸時代に高札が立ち、現在でも「札の辻」と呼ばれている。
古くから長浜の中心だったこの辻に、明治時代に第百三十銀行長浜支店として建築され、その外壁が黒漆喰の様相から『黒壁銀行』『大手の黒壁』の愛称で親しまれていた。

昭和63年4月、建物の保存と中心市街地活性化の拠点としての活用を目的に、第3セクター株式会社・黒壁として設立。
更に「黒壁」はこの一號館の周囲の古建築を、次々と美術館、ガラスショップ、工房、ギャラリー、カフェ、レストランへと再生してその数10館、「黒壁まちづくり」に参画する館を合わせると計30の古建築の再生に携わり、年間約300万人の観光客が訪れる観光スポットとなったのである。
黒壁の角から北国街道を望む。右側は一號館


では、大手門通りの方へ歩いてみる。

駅名のステンドグラス

長浜はガラス産業があった所ではないが、観光施設でガラス細工を推しているからであろうか。
「子供に見せたくない本を入れるポスト」が!

以前、彦根にもあったので、滋賀県は多いのだろうか。
秀吉と三成の像

長浜城主となった羽柴秀吉が鷹狩の途中で休憩に入った寺にて、後の石田三成である少年が気配りある茶を淹れたという事で召し抱えたという「三献の茶」というエピソードにちなんだ像である。
長浜城大手門跡



これは駅から東側であるが、城自体は線路を挟んで西側にある。
この水路もかつての堀の名残であろうか。

長浜駅の正面通りにある旧開智学校

明治4年に滋賀で最初の小学校「滋賀第一小学校」が開校。その時は民家を用いていたが、明治7年に木造3階建、八角塔屋付瓦葺の新たな擬洋風の建築にて建てられ、開智学校と改められた。かつては時を告げる大太鼓が備えられていた。
その後、幼稚園や女学校となり一時は原型も留めない程であったが、平成12年に復元された。
現在は一階はレストラン、二階は展示室、三階は会議室として活用されている。
長浜の中心部・黒壁スクウェア一號館

北国街道と、長浜城から東に延びる大手門通り(美濃谷汲街道)との交差点は、江戸時代に高札が立ち、現在でも「札の辻」と呼ばれている。
古くから長浜の中心だったこの辻に、明治時代に第百三十銀行長浜支店として建築され、その外壁が黒漆喰の様相から『黒壁銀行』『大手の黒壁』の愛称で親しまれていた。

昭和63年4月、建物の保存と中心市街地活性化の拠点としての活用を目的に、第3セクター株式会社・黒壁として設立。
更に「黒壁」はこの一號館の周囲の古建築を、次々と美術館、ガラスショップ、工房、ギャラリー、カフェ、レストランへと再生してその数10館、「黒壁まちづくり」に参画する館を合わせると計30の古建築の再生に携わり、年間約300万人の観光客が訪れる観光スポットとなったのである。
黒壁の角から北国街道を望む。右側は一號館


では、大手門通りの方へ歩いてみる。
続く…。
2012年08月15日
100年のレールを見に行く 完全版 6日②
11:50米原
いつもは激込みだが、今日はすんなり座れた。
彦根のアピール

近江鉄道

三上山

大津からは晴れ。

12:44京都 下車
サンドイッチで昼食。

山陰線に乗り込む。
続く…。
2010年07月20日
彦根 城めぐり 火縄銃サミット
前回の続き・・・。
ひこにゃんの芸がどんなかは気になりつつも、火縄銃サミットを覗いてみる。
京都女子大学教授・母利美和氏による「彦根藩の砲術」と題した講演内容。
細川氏に仕えていた稲富祐直が関ヶ原の戦いの際には細川忠興の夫人、ガラシャを警護していた。にも関わらず石田三成の人質になるまいとガラシャが自害するに至り、ガラシャを守れなかったとして戦後に忠興から殺されそうになるも、祐直は逃亡し彦根辺りに潜伏していた時、彦根を領することになった井伊直政にその砲術の才能を見込まれて砲術指南役として登用されたのが彦根藩の砲術の始まりだとか。
砲術は全国各地に伝承し、初めは10家ほどであったが、幕末近くには200家にもおよんだ。
彦根藩では砲術を重視し、幕末になると江川英龍の元に砲術を学ばせに多くの家臣を派遣したという話も興味深かった。
続いて、火縄銃の歴史を生かした町づくりをテーマにパネルディスカッション。
先程の講演を行った母利美和氏をコーディネーターに、 国友鉄砲研究会 廣瀬一實氏・江戸幕府鉄炮組百人隊保存会 三瓶千詠氏・全国古式砲術鉄砲サミットin彦根実行委員会会長 杉本定幸氏がパネリストを務めた。
ただ残念なことに、町づくりよりも火縄銃サミットを如何に開催するかという話に終始してしまって、楽屋話を聴いている感じになってしまった。なんでも、火縄銃とはいえ、発砲許可を警察から取らねばならないのだが、それが年々難しくなっているとのことである。
翌日には総勢320人、23の火縄銃演武団体が駆けつけ、様々な演武を行ったとか。
サミットは終了、彦根市を後にする前に、駅前のスーパーで弁当を買おうか入ってみると、入り口付近は「ひこにゃん」の土産がズラっと。

派製品も出ているようです。別物のような気も…。

「ひこねのよいにゃんこ」は居ませんでした。
そんな事で彦根市を後にした。
2010年07月17日
彦根 城めぐり ひこにゃん登場
歓声が轟いたとともに、
「ひこにゃん登場しまーす。見たい方はコチラへ!」
との声が聞こえてきたので、ちょっと寄ってみる。すると、庭のような空間を閉鎖して人数と時間を制限しているようだ。
てっきり、何時でもひこにゃんを見る事が出来るのかと思っていたが、一日に3回、出るのは30分と限られているようである。

ひこにゃん登場。正面の建物から出てくると思っていたら裏をかかれました。

これほどの歓声を浴びると中の人はどんな気分でしょうか。

以下は知人に頂いた動画を自分がアップロードしたものです。
「これからひこにゃん芸をしまーす。」
と観光協会らしい人が前説していたが、自分は火縄銃サミットの方が気になるので、中座してソチラへ向かった。
続く・・。
2010年07月13日
彦根 城めぐり 彦根城にて
彦根城は佐和山城から用材を分捕って造ったと言われるだけあって、明らかに規模と様式が違います。

城門の跡でしょうか。
「井伊直弼と開国150年祭」という横断幕が張ってあって、ここでは、開国したのは井伊直弼という感じです。
彦根城博物館。この中で火縄銃サミットが行われているという事なので、入ろうとしたら急に大きな歓声が上がったので行ってみる。
続く…。
2010年07月08日
彦根 城めぐり 鳥居本駅
彦根市街地に戻る前に、改めて近江鉄道・鳥居本駅を眺めてみる。

昭和6年の開業時の姿を今も留める。
入り込む光が印象的でした。


この駅舎でコンサートとか面白そうだなと思っていたら、平成八年に連続184時間というコンサートが行われ、ギネス記録にもなったとか。

これから彦根市街地へ向かいます。
2010年07月07日
彦根 城めぐり 佐和山城跡発掘現場説明会
石田三成の居城であった佐和山城跡の発掘現場を見に行く。
佐和山城は石田三成が関ヶ原の戦いで敗れた後、徹底的に破壊され後に彦根藩が立藩し彦根城が建てられる時にはその用材調達に持ち出され、現在も不明な点が多いとのことである。
かつて外堀であった水路。洗濯している人も居ました。

解説の人からは、
「今まで琵琶湖水運に面した西側が城の表と考えられていたが、高級な生活用具が多いので中山道に面したこの東側が表と考えても良いのでは」
との見解を述べていた。
出土した焼き物の数々。
フイゴの羽口や鉄滓から鍛冶屋が居た事がわかります。
現在、佐和山城跡はある寺の所有であり、私有地と言う扱いなので勝手に入る事が出来ないとの事。突っ切って彦根の市街地に戻ろうと思ったがそれが出来ずに仕方なく鳥居本宿に戻る。
続く…。
2010年07月03日
彦根 城めぐり 鳥居本宿2
更に歩きます。

そんな中、ちょっと気になる趣きの建物が。

近づくと本陣宿の跡だったという。
しかもヴォーリズの様式であった。
現在は老人福祉施設になっています。
江戸時代に旅籠だった建物で、湖東焼と言う焼き物の絵付け師である「自然斎」が住んでいた。
聖徳太子開祖と伝わる専宗寺
宿場も端に来たようで分岐点が。

中山道と彦根城に向かう道の分岐です。
では、彦根城の方に向かってみます。
続く…。
2010年07月01日
彦根 城めぐり 鳥居本宿1
中山道の宿場である鳥居本宿を歩いてみる。
多賀大社の鳥居がここにあったことから鳥居本の名がついたと伝えます。
鳥居本宿に江戸時代からある胃薬「赤玉神教丸」を製造販売している有川家

明治天皇の行幸時には宿舎にもなりました。


多くのウォーカーが見学していました。

気になったのがコレ。合羽所「松屋」とある。


鳥居本では雨具である合羽の製造が盛んだったとの事。現在は縄を作っているとの事。
ここには古くからのものづくりがあるようです。
続く…。
2010年06月30日
彦根 城めぐり 謎の城
公認ではないと思いますが…。
駅のそばにあった観光案内所では彦根では近江ちゃんぽんなるB級グルメがあるという。駅前にあった店に入ってみる。
長崎ちゃんぽんとは異なり、塩味のあっさりした感じで魚介より野菜が豊富に用いられている。半分くらい食べたらテーブルに置いてある酢を入れて味に変化をつけて食べます。
腹も満たされた所で、佐和山城跡へと向かう。
その途中、突如このような光景が。
見た所、「佐和山歴史館」と書いてあったので帰宅してから検索すると、こんなサイトを発見。
国道8号線のすぐ脇なので、一般道で彦根に入る人は気がつくと思います。
どうもこの周辺は町外れなのか、先のような佐和山歴史館やラブホテルが密集している。かつて天下分け目の戦いの一端が行われた場所も今日では平和であります。
トンネルと峠を越え、国道脇で車がびゅんびゅん走っている脇で40分ほど歩くと本来の佐和山城の跡に。
大手門から城跡を望む。
発掘現場説明会にはまだ時間があるので、近くの中山道の宿場・鳥居本宿を散策してみる。
続く…。
2010年06月24日
彦根 城めぐり 駅にて
歴女とひこにゃんで賑わっていると言われる彦根市に行ってみました。
その前に車窓から見る伊吹山。雄大です。

彦根駅のホームからは近江鉄道も発着しています。


西武と同じですね。
駅内に飾られていた鎧。

井伊直政の孫が着用していた鎧のレプリカで、直政の赤備えに準じた様式です。
彦根駅前の井伊直政像。前立ての角が非常に特徴です。

ひこにゃんもこの姿を踏襲しています。
今回の目的は、石田三成の居城であった佐和山城の発掘現場説明会があるので、それを見てみる事。
駅の近くにあった観光案内所で情報収集していると、訪れた当日、火縄銃サミットなる催しを開催しているとか。
急遽、そこにも行ってみる事にもする。
その前に車窓から見る伊吹山。雄大です。

彦根駅のホームからは近江鉄道も発着しています。


西武と同じですね。
駅内に飾られていた鎧。
井伊直政の孫が着用していた鎧のレプリカで、直政の赤備えに準じた様式です。
彦根駅前の井伊直政像。前立ての角が非常に特徴です。
ひこにゃんもこの姿を踏襲しています。
今回の目的は、石田三成の居城であった佐和山城の発掘現場説明会があるので、それを見てみる事。
駅の近くにあった観光案内所で情報収集していると、訪れた当日、火縄銃サミットなる催しを開催しているとか。
急遽、そこにも行ってみる事にもする。
続く…。