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2016年08月01日
静岡県小山町・東口本宮冨士浅間神社
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

東口本宮冨士浅間神社(須走浅間神社とも)は静岡県小山町須走126番地に座する旧県社の神社である。

平安時代初頭の延暦21年(802)、富士山東麓が噴火をしたため、須走に斎場を設けて祭事を行い鎮火の祈願を行った。それにより同年四月初申の日に噴火が収まったため、大同2年(807年)に鎮火祭の跡地に、報賽のため社殿を造営したと伝えられている。
表参道にある石製の大鳥居。

扁額には「不二山」の文字が刻まれており、「二つとない(不)素晴らしい山=不二山・富士山」という意味である。
他の神社では見られない当社特有の鳥居である。明治33年に氏子より寄進された。
随神門

本殿同様に宝永の噴火で壊れたが、当時この地方を治めていた小田原藩主・大久保加賀守によって再建された。
表の両脇には、随神(門神)・櫛岩間戸神と豊岩間戸神が鎮座し、裏の両脇には例大祭で担がれる富士山神輿が二基納められている。
掲げられている扁額「國威震燿」は日清戦争の戦勝と兵士の健康を祈念し、富士講・村上藤丸講により寄進されたもので、文字は小松宮彰仁殿下に依るもの。
随神門前の「獅子の子落とし」を模する富士塚の狛犬(阿形)

昭和初期に山三元講より寄進されたもの。
富士塚を模した岩場の上に「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」という、「獅子の子落とし」の諺を倣った親子の狛犬が3匹いる。
他に類を見ない極めて珍しい狛犬である。
創建後まもない平安時代には、弘法大師(空海)が当社にて修行を行い、富士登山をしたという伝承も存在したことから、かつて中世期頃までは弘法寺浅間宮と称されていた。
拝殿

本殿・幣殿・拝殿が一体となっている権現造。
現在の社殿は富士山・宝永の噴火後に再建された当時の遺構をそのままに修復・修繕を行ってきたものである。
その後も屋根の葺替えや修繕などが行われてきたが、昭和33年の修繕に際して屋根が千鳥破風に変更された。
平成19年の御鎮座1200年際に際し、記念事業の一環として大修理が行われ、同21年に竣功して現在に至る。外観はその際に整備され、塗装には大々的に漆が使われている。
尚、社殿の一部機構には江戸期の木材がそのまま流用されていることが確認されており、平成18年には小山町有形文化財に指定された。


室町時代後半(戦国期)・江戸時代には、一般庶民による富士山登拝信仰・富士講や修験道者の信仰を集め、須走口登山道・須走の宿場町とともに栄え賑わった。
この頃より、須走口登山道の9合目・迎久須志之神社、6合目・胎内神社、5合目・古御岳神社、4合目・御室浅間神社、2合目・雲霧神社は当社の神主により祭祀が行われていた。
祭神は木花咲耶姫命、大己貴命、彦火火出見命
末社・恵比須大国社

境内末社の一社。かつて、当社社殿裏には裏神様が祀られており、その分霊が小山町・富士紡の工場敷地内に祀られていた。工場内の事情により当社へと戻られ、当社の裏神様と合祀して、境内末社にて祀られることとなった。
御祭神は、大国主命と事代主命。例祭は、11月下旬に斎行する。
末社・社護神社

境内末社の一社。かつては、日枝神社・山神社・琴平神社・霧島神社・高尾神社・社護神社という六社が境内末社として御鎮座されていたが、現在はこの社護神社に合祀をしている。御祭神は、社護神社の月讀命、日枝神社の金山彦命の他、13柱の神々を祀る。
例祭は、毎年十五夜の日に斎行。
その他、商売繁昌を祈願する高尾祭という祭典が、地元講元により毎年12月1日に斎行する。
神社脇にはかつての鎌倉街道を復元している。

江戸時代には東口登山道=須走口登山道の本宮として、駿河国と甲斐国を結ぶ交通の要所であった須走村(現・駿東郡小山町須走)の宿場町とともに栄えた。
例大祭は5月5日
大正時代から昭和時代初頭は富士講による登山参拝者が最も増えた時期であり、富士講信者の建てた登拝碑の数々

富士登山では33回が1つの記念すべき区切りとされている。当社に残る石碑の中で最も多い回数は、和歌山県の方による899回である。

浅間神社神主の下に編成された須走村の御師は小田原藩及び京都の吉田家の庇護を受け、その活動は関東一円に広がった。
特に宝永大噴火によって須走村がほぼ全焼全壊し農業が壊滅的な打撃を受けると、御師などの富士登山関連に依拠する側面が強まり、これを統制するために寛延2年(1749年)に浅間神社の神主と小田原藩の主導で既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らのみが御師として神職待遇を受ける事が認められた。
境内に水が湧きだしており、それが参道入り口には信しげの滝となっている。

かつて滝の整備が行われた際に「信しげ」と書かれた石が発掘されたことから、一説では富士講関係者の名前であると考えられているが、推測の域を出ない。


2013年(平成25年)、富士山がユネスコの世界文化遺産に登録された際には、構成資産の一つとして登録された。合わせて、須走口登山道も別に構成資産として登録された。
今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
より大きな地図で Holymountain を表示
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

東口本宮冨士浅間神社(須走浅間神社とも)は静岡県小山町須走126番地に座する旧県社の神社である。

平安時代初頭の延暦21年(802)、富士山東麓が噴火をしたため、須走に斎場を設けて祭事を行い鎮火の祈願を行った。それにより同年四月初申の日に噴火が収まったため、大同2年(807年)に鎮火祭の跡地に、報賽のため社殿を造営したと伝えられている。
表参道にある石製の大鳥居。

扁額には「不二山」の文字が刻まれており、「二つとない(不)素晴らしい山=不二山・富士山」という意味である。
他の神社では見られない当社特有の鳥居である。明治33年に氏子より寄進された。
随神門

本殿同様に宝永の噴火で壊れたが、当時この地方を治めていた小田原藩主・大久保加賀守によって再建された。
表の両脇には、随神(門神)・櫛岩間戸神と豊岩間戸神が鎮座し、裏の両脇には例大祭で担がれる富士山神輿が二基納められている。
掲げられている扁額「國威震燿」は日清戦争の戦勝と兵士の健康を祈念し、富士講・村上藤丸講により寄進されたもので、文字は小松宮彰仁殿下に依るもの。
随神門前の「獅子の子落とし」を模する富士塚の狛犬(阿形)

昭和初期に山三元講より寄進されたもの。
富士塚を模した岩場の上に「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」という、「獅子の子落とし」の諺を倣った親子の狛犬が3匹いる。
他に類を見ない極めて珍しい狛犬である。
創建後まもない平安時代には、弘法大師(空海)が当社にて修行を行い、富士登山をしたという伝承も存在したことから、かつて中世期頃までは弘法寺浅間宮と称されていた。
拝殿

本殿・幣殿・拝殿が一体となっている権現造。
現在の社殿は富士山・宝永の噴火後に再建された当時の遺構をそのままに修復・修繕を行ってきたものである。
その後も屋根の葺替えや修繕などが行われてきたが、昭和33年の修繕に際して屋根が千鳥破風に変更された。
平成19年の御鎮座1200年際に際し、記念事業の一環として大修理が行われ、同21年に竣功して現在に至る。外観はその際に整備され、塗装には大々的に漆が使われている。
尚、社殿の一部機構には江戸期の木材がそのまま流用されていることが確認されており、平成18年には小山町有形文化財に指定された。


室町時代後半(戦国期)・江戸時代には、一般庶民による富士山登拝信仰・富士講や修験道者の信仰を集め、須走口登山道・須走の宿場町とともに栄え賑わった。
この頃より、須走口登山道の9合目・迎久須志之神社、6合目・胎内神社、5合目・古御岳神社、4合目・御室浅間神社、2合目・雲霧神社は当社の神主により祭祀が行われていた。
祭神は木花咲耶姫命、大己貴命、彦火火出見命
末社・恵比須大国社

境内末社の一社。かつて、当社社殿裏には裏神様が祀られており、その分霊が小山町・富士紡の工場敷地内に祀られていた。工場内の事情により当社へと戻られ、当社の裏神様と合祀して、境内末社にて祀られることとなった。
御祭神は、大国主命と事代主命。例祭は、11月下旬に斎行する。
末社・社護神社

境内末社の一社。かつては、日枝神社・山神社・琴平神社・霧島神社・高尾神社・社護神社という六社が境内末社として御鎮座されていたが、現在はこの社護神社に合祀をしている。御祭神は、社護神社の月讀命、日枝神社の金山彦命の他、13柱の神々を祀る。
例祭は、毎年十五夜の日に斎行。
その他、商売繁昌を祈願する高尾祭という祭典が、地元講元により毎年12月1日に斎行する。
神社脇にはかつての鎌倉街道を復元している。

江戸時代には東口登山道=須走口登山道の本宮として、駿河国と甲斐国を結ぶ交通の要所であった須走村(現・駿東郡小山町須走)の宿場町とともに栄えた。
例大祭は5月5日
大正時代から昭和時代初頭は富士講による登山参拝者が最も増えた時期であり、富士講信者の建てた登拝碑の数々

富士登山では33回が1つの記念すべき区切りとされている。当社に残る石碑の中で最も多い回数は、和歌山県の方による899回である。

浅間神社神主の下に編成された須走村の御師は小田原藩及び京都の吉田家の庇護を受け、その活動は関東一円に広がった。
特に宝永大噴火によって須走村がほぼ全焼全壊し農業が壊滅的な打撃を受けると、御師などの富士登山関連に依拠する側面が強まり、これを統制するために寛延2年(1749年)に浅間神社の神主と小田原藩の主導で既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らのみが御師として神職待遇を受ける事が認められた。
境内に水が湧きだしており、それが参道入り口には信しげの滝となっている。

かつて滝の整備が行われた際に「信しげ」と書かれた石が発掘されたことから、一説では富士講関係者の名前であると考えられているが、推測の域を出ない。


2013年(平成25年)、富士山がユネスコの世界文化遺産に登録された際には、構成資産の一つとして登録された。合わせて、須走口登山道も別に構成資産として登録された。
今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
より大きな地図で Holymountain を表示
Posted by かるの at 08:15│Comments(0)
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