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2015年01月01日
福井県敦賀市・気比神宮
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

気比神宮は福井県敦賀市曙町11-68に座する神社。延喜式内社・越前国一宮で、旧社格は官幣大社である。

祭神は伊奢沙別命 (いざさわけのみこと)、帯中日子命(たらしなかひこのみこと・仲哀天皇)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)
『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見え、特に第14代仲哀天皇・神功皇后・第15代応神天皇との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。
敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島・中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。

例大祭は9月4日。主な神事は御誓祭(3月6日)・御名易祭(3月8日)・御田植祭(6月15日)・牛腸祭(6月16日)・総参祭(7月22日)・気比の長祭(9月2日-15日)。


大鳥居を気比神宮交差点から望む

大鳥居

寛永年間に建てられたこの大鳥居は日本三大木造大鳥居の一つに数えられ、大戦中の空襲を免れている事もあり国の重要文化財に指定されている。
気比の長命水

大宝2年(西暦702)、氣比神宮の造営中に涌きだしたと伝えられる。


敦賀の地名由来となった角賀(つぬが)神社

崇神天皇の頃、朝鮮半島の任那の王子・都怒我阿羅斯等(つぬが あらしと)が気比の浦に上陸し貢物を奉った。
天皇は気比大神宮の司祭と当国の政治を委ねたという。

大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)

式内社に比定され、古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。
明治9年(1876年)に村社に列したが、明治44年(1911年)に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。
角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。
祭神は大己貴命、合祀に稲荷神・金刀比羅神。例祭は10月10日
本殿向かって左手に鎮座する九社之宮

左から天伊弉奈彦・天伊弉奈姫・天利劔・伊佐々別・擬領・劔・金・林・鏡の9社。
天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の三社は「気比大神之御子」であるという。
気比宮古殿地

境内に隣接する敦賀北小学校校庭には「土公(どこう)」と称される小丘がある。
社伝では、気比大神はこの土公に降臨したという事から、土公は神宮の聖地とされており、周囲には卵形の石が八角形にめぐらされている。
大宝2年(702年)の社殿造営以前は土公を神籬として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、最澄・空海は当地で7日7夜の祈祷を行なったとも伝える。
この土公は聖別されているため、調査が行われておらず詳細は明らかでない。
市指定の天然記念物のユーカリ

常緑樹である事から武運長久を祈って陸軍関係者が昭和11年に植えた。
芭蕉の像


気比神宮の参拝を楽しみにしていた芭蕉は、「月清し 遊行のもてる 砂の上」など一夜に15句詠んだという。
旗掛けの松

南北朝の争乱の延元元年(1336)、北朝方の足利軍に対して、気比神宮宮司・気比氏治が南朝方として神宮の神旗を掲げた松である。
神宮を出て、再び交差点に出ると見掛けたのが御砂持神事の像である

正安3年(1301年)に神宮を参詣した他阿真教が敦賀に滞在した折、神社の周りが泥池のため参拝客が難儀しているのを見て、上人自らが先頭に立ち、僧侶や大勢の人たちと共に、浜から砂を運んで改修を行ったことに因んだ神事。
今日まで、時宗の大本山遊行寺管長が交代したときに、この神事が行われている。
今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
より大きな地図で
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

気比神宮は福井県敦賀市曙町11-68に座する神社。延喜式内社・越前国一宮で、旧社格は官幣大社である。

祭神は伊奢沙別命 (いざさわけのみこと)、帯中日子命(たらしなかひこのみこと・仲哀天皇)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)
『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見え、特に第14代仲哀天皇・神功皇后・第15代応神天皇との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。
敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島・中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。

例大祭は9月4日。主な神事は御誓祭(3月6日)・御名易祭(3月8日)・御田植祭(6月15日)・牛腸祭(6月16日)・総参祭(7月22日)・気比の長祭(9月2日-15日)。


大鳥居を気比神宮交差点から望む

大鳥居

寛永年間に建てられたこの大鳥居は日本三大木造大鳥居の一つに数えられ、大戦中の空襲を免れている事もあり国の重要文化財に指定されている。
気比の長命水

大宝2年(西暦702)、氣比神宮の造営中に涌きだしたと伝えられる。


敦賀の地名由来となった角賀(つぬが)神社

崇神天皇の頃、朝鮮半島の任那の王子・都怒我阿羅斯等(つぬが あらしと)が気比の浦に上陸し貢物を奉った。
天皇は気比大神宮の司祭と当国の政治を委ねたという。

大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)

式内社に比定され、古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。
明治9年(1876年)に村社に列したが、明治44年(1911年)に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。
角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。
祭神は大己貴命、合祀に稲荷神・金刀比羅神。例祭は10月10日
本殿向かって左手に鎮座する九社之宮

左から天伊弉奈彦・天伊弉奈姫・天利劔・伊佐々別・擬領・劔・金・林・鏡の9社。
天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の三社は「気比大神之御子」であるという。
気比宮古殿地

境内に隣接する敦賀北小学校校庭には「土公(どこう)」と称される小丘がある。
社伝では、気比大神はこの土公に降臨したという事から、土公は神宮の聖地とされており、周囲には卵形の石が八角形にめぐらされている。
大宝2年(702年)の社殿造営以前は土公を神籬として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、最澄・空海は当地で7日7夜の祈祷を行なったとも伝える。
この土公は聖別されているため、調査が行われておらず詳細は明らかでない。
市指定の天然記念物のユーカリ

常緑樹である事から武運長久を祈って陸軍関係者が昭和11年に植えた。
芭蕉の像


気比神宮の参拝を楽しみにしていた芭蕉は、「月清し 遊行のもてる 砂の上」など一夜に15句詠んだという。
旗掛けの松

南北朝の争乱の延元元年(1336)、北朝方の足利軍に対して、気比神宮宮司・気比氏治が南朝方として神宮の神旗を掲げた松である。
神宮を出て、再び交差点に出ると見掛けたのが御砂持神事の像である

正安3年(1301年)に神宮を参詣した他阿真教が敦賀に滞在した折、神社の周りが泥池のため参拝客が難儀しているのを見て、上人自らが先頭に立ち、僧侶や大勢の人たちと共に、浜から砂を運んで改修を行ったことに因んだ神事。
今日まで、時宗の大本山遊行寺管長が交代したときに、この神事が行われている。
今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。
より大きな地図で
Posted by かるの at 08:03│Comments(0)
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