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2010年09月18日
9月24日講演 廬原君臣 スルガ湾の古代史と白村江の戦い
9月24日19時より、講演致します。
内容は「救国の将 廬原君臣とスルガ湾の古代史と白村江の戦い」です。
古代のスルガ湾を駆け巡っていた海の民たち。
その海の民をまとめていたのが庵原地域の豪族・廬原君(いほはらのきみ)。
今から約1400年前、歴史の教科書で言えば大化の改新があった頃、朝鮮半島の一国・百済(くだら)が同じ朝鮮半島の国・新羅(しらぎ)と唐(中国)の連合軍に攻められ滅亡した。
百済と同盟を組んでいた日本(当時は倭国)は百済を復興すべく大軍を派遣し決戦に挑む。
その軍の中には廬原君と共に当時のスルガ湾地域から一万人がつき従い、三千艘の船がスルガ湾から船出した。
歴史の教科書では1ページで片付けられる場面ですが、千年以上の昔、我々の先祖に当たる人たちがどんな気持ちで帰って来られぬかも知れぬ船出に旅立ったのか、多くの人に知って貰いたい歴史の一場面であります。
会費は500円(お茶付き)。
開催場所はコチラ・沼津市民文化センター内のカフェ・teshioにて
ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。
内容は「救国の将 廬原君臣とスルガ湾の古代史と白村江の戦い」です。
古代のスルガ湾を駆け巡っていた海の民たち。
その海の民をまとめていたのが庵原地域の豪族・廬原君(いほはらのきみ)。
今から約1400年前、歴史の教科書で言えば大化の改新があった頃、朝鮮半島の一国・百済(くだら)が同じ朝鮮半島の国・新羅(しらぎ)と唐(中国)の連合軍に攻められ滅亡した。
百済と同盟を組んでいた日本(当時は倭国)は百済を復興すべく大軍を派遣し決戦に挑む。
その軍の中には廬原君と共に当時のスルガ湾地域から一万人がつき従い、三千艘の船がスルガ湾から船出した。
歴史の教科書では1ページで片付けられる場面ですが、千年以上の昔、我々の先祖に当たる人たちがどんな気持ちで帰って来られぬかも知れぬ船出に旅立ったのか、多くの人に知って貰いたい歴史の一場面であります。
会費は500円(お茶付き)。
開催場所はコチラ・沼津市民文化センター内のカフェ・teshioにて
ちなみに、タイトルの「世間士(ショケンシ・セケンシとも)」とは、民俗学の言葉で「各地で見聞きしたことを故郷に伝え、役に立てる人」という意味です。
本来は「世間師」が正しいですが、自分で「師」というのもおこがましいので、「士」としました。
Posted by かるの at 08:22│Comments(0)
│世間士として