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かるの
各地で歴史講座を展開中。歴史を知る事で、人生や地域が豊かになる事を目指して。
フリーマガジン「道の駅」にも寄稿中。
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2016年10月13日

カモメの詩が聞こえる街 増毛へ ④



翌朝、抜けるような青空で、陽射しは暑いが日陰に居ると風がやや肌寒い。
カモメの詩が聞こえる街 増毛へ ④

 西に目を転じると、その海岸線は北海道の中でも特に険しい断崖絶壁の続く場所で、かつて陸の孤島と言われた雄冬(おふゆ)の集落がある。雄冬に国道が通じたのは1984年で、それまでは積雪時に全面通行止めになってしまう山道しか通じておらず、冬場は増毛からの1日1往復の連絡船のみが外部へつながれた交通手段しかなかったという。この事も、終着点という趣を醸し出す。

 海辺では水遊びをする人が数多く、カモメが群を成して飛び回っている。その様子を見ながら海の側で音楽を聴きつつ食事。
 北海道という事で、「マルちゃん」の東洋水産が北海道エリアのみで販売している「やきそば弁当」。
カモメの詩が聞こえる街 増毛へ ④
 箸が無かったので、小枝を拾って洗って箸にする。
カモメの詩が聞こえる街 増毛へ ④

 やきそば弁当の後は「チョコブリッコ」なる菓子パン。
カモメの詩が聞こえる街 増毛へ ④
 意外に美味しいチョコケーキだが、一つ当たり480キロカロリーという・・・

 テントを片付けて歩き出します。本当はもう一泊して増毛を感じたいとも思ったのですが、帰りのフェリーが取れない可能性が出て来たので撤収です。
 キャンプ場の隣にはバスターミナルがあったので行き先などを見てみると札幌まで90分である。鉄道だと深川から90分掛かっている事を考えると、明らかにバスの方が便利だ。鉄道利用者が少なくなるのも無理ないかなと思う。しかし、このバス会社、やたらと萌えキャラ推しなのが面白い。

 増床された結果?
カモメの詩が聞こえる街 増毛へ ④

 潤燈寺
カモメの詩が聞こえる街 増毛へ ④

 雪国らしい警告標識
カモメの詩が聞こえる街 増毛へ ④

 まず訪れたのが、総合交流促進施設・元陣屋。
カモメの詩が聞こえる街 増毛へ ④
 ここは文化交流施設として館内には郷土資料室、図書室、会議室や多目的ギャラリーなどがあり、外観も陣屋のイメージだ。図書室で地元の新聞や雑誌を読みつつ郷土資料室を見学する。
 資料室には当時の実際の書簡や使われた道具などを展示。展示の幅も江戸時代から昭和にかけてと幅広く貴重な資料が展示されている。見学には400円を要するが、JRで来たというと300円になる。

 ちなみに元陣屋という名称は、幕末の1855年に幕府より北方警備を命じられた秋田藩が藩士の詰め所として建てた陣屋があった場所である事に由来する。
 この元陣屋に来るまでに寺を数軒見たが、もしかすると陣屋の防衛目的なのかもしれない。

 増毛の地名が最初に歴史に登場するのは宝永3年(1706年)松前藩藩士・下国家がマシケ領を知行した時。増毛の地名由来は、アイヌ語で「カモメの多い所」という意味の「マシュキニ」又は「マシュケイ」が転じたもので、鰊が産卵する群来(くき)という現象が起こると海一面にカモメが飛ぶ事からであると言われています。そのカモメを見た人間は鰊を追ってやって来る事になる。それに由来するのか、増毛町のキャラクターは水兵姿のカモメ「マーシーくん」である。
 その後、宝暦元年(1751年)に能登出身の松前商人・村山伝兵衛が箱館奉行所より増毛場所を請負、増毛に出張番屋を設け交易を始めた。増毛は豊富な水産資源に恵まれ、中でも鰊漁は増毛に多くの富をもたらした。1840(天保11)年以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになり、増毛の地に和人が定着を始める。
 当方の講座「オホーツクの霧の海 前編」は日本とロシアの関係史をテーマとした内容ですが、その中では江戸時代にロシアの南下に対して、東北地方の諸藩が蝦夷地沿岸部の防備に赴いた事に触れました。
 文化4年(1807)、幕府はロシアに対しての国防上の理由から増毛周辺は天領とされ、仙台・会津・南部・秋田・庄内の東北諸藩に蝦夷地警備と出兵を命じた。津軽藩は宗谷・斜里・樺太の守備を命じられたが、北蝦夷地及び宗谷の気象条件が厳しく、特に冬期の寒さと食料不足から来る病では、最初に宗谷で越冬した藩士150人中70人が死亡するという悲惨な状況であった事から、津軽藩は幕府に対し願い出た結果、文化6年(1823)以降は比較的温暖な増毛に陣屋を置くことになり、この地にあった「津軽藩越年陣屋」は増毛に建てられ、200人から300人が詰めていた。
文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり今度は前述したように秋田藩による蝦夷地警備が安政3年から慶応3年までの12年間行われました。元陣屋は総建坪1160坪、平屋建28棟からなり、周辺には河川の水を導き入れた濠も構えた。陣屋外にも侍屋敷28軒、足軽長屋75棟を築き、150名から200名ほどの藩士が駐在していた。陣屋の出来た翌年には、東西の高台に台場が2か所設営され、ドイツ製の大砲一門と和製大砲三門が備え付けられ、また烽火台や見張台があったという。この様に増毛は北方警備の要衝となった歴史を持っている。
慶応3年(1867年)、秋田藩が引き揚げて箱館奉行の直轄となり、廃藩置県までの僅かな期間だが山口藩増毛出張所の役人住居として利用された。明治30年頃まで陣屋が残っていたという。

 明治期になると、特にニシン漁で賑わい、この頃のニシンは肥料として主に使用されていたが、その頃の漁場であった江差を始めとする道南地区では極端な不漁が続いたため、増毛、留萌、天売などに漁場の中心が移った。また、漁業技術も改良されて飛躍的に発展した。全国各地からニシンで一攫千金を夢見る出稼ぎ労働者が集まり、現在の基礎となる街づくりが行われた。最盛期の増毛は、ニシンの千石場所とも呼ばれ商人の活躍も目覚ましく、網元や商人が築いた財は、惜しみなく豪邸に注がれ、絵師や書家、文筆家らが立ち寄るほどの勢いとなり街が飛躍する原動力になった。交通の要衝として港湾、鉄道の整備が進められ、その経済的発展の遺産といえる歴史的資源が今に伝えられている事になる。
 大正中期から昭和20年代にかけて増毛のニシン漁獲高は全国一を誇っていたが、昭和28年を境に漁獲高が激減、昭和33年を最後に増毛のニシン漁は終焉を迎えた。

 ここで元陣屋を後にし、昭和11年に建築された北海道最古にして最大の木造校舎「旧町立増毛小学校」を見に行こうとするも、高台にあるため重たい荷を背負っているのもあって断念。ニシン漁で栄えた時代に立派な木材を使用して建築したからこそ、平成24年の移転まで現役で使用できたのだろう。

 幼稚園の建物
カモメの詩が聞こえる街 増毛へ ④

 その途中、中村屋製菓という看板を見掛けたので、休憩がてら入ってみる。ここの暑寒物語という菓子を購入。ブッセであるが生地がしっとりとして、口で融ける様な食感が素晴らしい。二種類しか買わなかったが、今度行く機会があれば全種類購入したい。一緒に羊羹も購入。味が楽しみだ。

続く…




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Posted by かるの at 08:11│Comments(0)店主
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