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かるの
各地で歴史講座を展開中。歴史を知る事で、人生や地域が豊かになる事を目指して。
フリーマガジン「道の駅」にも寄稿中。
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2008年05月31日

富士山と美術

 富士市歴史講座第二回は「富士山と美術」。講師は静岡県立美術館学芸課長の飯田真氏。

 富士山のイメージは時代と共に変わって来た。
 特に平安時代は噴火を繰り返して来たため、恐ろしい神の山というイメージ。
 噴煙→燃える→燃える恋のイメージも。
 この頃から、絵画に描かれるようになるが、当時は頂上を三峰に描いている。これは都にいる人が富士山を実際に見ないで「神の山」というイメージで描いた場合、バランスがとれている三峰で描いたのと、峰に大日如来などの仏を配した事による。

 室町時代になると、街道を往来する人が増え、名所絵というものが生れてくる。
 その中には水墨画の雪舟もあり、「富士三保清見寺図」として富士を描いている。当時、東海道を往来する人には清見寺が名所の一つとして知られており、僧侶は必ず立ち寄ったという。
「富士三保清見寺図」は雪舟の真筆とは言えないものの、古くから模写され、後の狩野派では絵の技法を学ぶ手本として扱われた。

 桃山時代は豪放さが特徴。
 豊臣秀吉は自分の陣羽織に抽象化した富士山を用いている。これは、強いものとしての象徴である。
 この頃に「日本三景」の概念が生まれたとされるが、富士山が入ってないのは、言うまでもない自明の事として富士山は知られていたからである。

 江戸時代には豪放さから瀟洒へと変わる。
 狩野派の狩野探幽は、幕府の御用絵師として江戸と京を20回以上往復した。その際に富士を多く描き、その中には現存する最古の富士山のスケッチがある。富士山を写実的に描いた物としてはこれが最古である。
 江戸中期になると多くの人が旅に出掛けるようになり、正確で写実的な絵のニーズが高まる。薩摩藩の御用絵師・木村探元は幅2m近い掛け軸いっぱいに富士を描き巨大さを表した
 それに、洋画の技法も加わり、空が青く描かれるのもこの時代からである。

 明治以後、富士山は画家の個性に委ねられる。同じ富士山でも画家によって様々な描かれかたをされる。

 最後に、これら日本画は掛け軸や襖絵などが中心だが、最近の家屋には床の間は元より和室すらなく、掛け軸も額装に作りかえられている。ここに伝統的な日本画の危機を感じると締められました。

 私が気に入ったのは、狩野永楽の作品「富嶽登龍図」。富士山の麓の海の波が龍になって空へと登る作風は、幕末(嘉永5年作)の世相を反映しているそうです。

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Posted by かるの at 18:27│Comments(0)店主
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