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2013年12月28日
リンゴ狩りと海野宿探訪 ①林檎狩り
長野県青木村へとリンゴ狩りと長野県東御市にある北国街道の宿場・海野宿に行って来ました。
長野は静岡とは寒さが違うからか、色鮮やかな紅葉で、道路を走っていても感動する事しきり。


リンゴは木一本単位のオーナー制となっており、その木に成った実は全て収穫というシステム。

狩りに行った友人と収穫。

リンゴは実を捻るだけで簡単にもぐ事が出来ます。
リンゴ自体は今年は裏年であり台風の影響もあり収穫量としては残念な収量でした。

最低収穫量として、30キロが保障されているのですが、一本ではそれに満たず。
前は木一本で200キロを超えたのですが・・・。
軽々と詰めてしまいました。

少しリンゴ農家さんの家に上げて頂き、色々とお話しさせて頂いた。
やっぱり長野の人は漬物つけるのが上手いな。
それに前は村のイベントなんかも含めてだったので、林檎狩りも賑わっていたのですが、この日は雨が降りそうな曇りであるのと、自分たちだけというのが何か寂しげでした。
リンゴ狩り農園を出た後は、海野宿へ。
海野宿へは友人に海野姓の人が居る事から、前々から行きたかったのと、昨年の夏に小諸宿を訪ねて北国街道の宿場が気になる所がありました。
海野宿は1625年に北国街道の宿場として、江戸幕府によって設置された。
海野宿には、約 650mにわたり街並みが続き、本陣1軒と脇本陣2軒が設けられ、善光寺までの参拝客や、北陸諸大名の参勤交代などで利用され、非常に賑わいをみせていた。現在でも本陣、脇本陣、問屋、旅籠などの跡が残っている。海野格子と呼ばれる二階の出格子が良く残されている。

明治には蚕の病気が発生しにくい気候を活かし養蚕業で栄え、養蚕に用いられた建物や、その富により建築された壮大な建物は江戸期の建物と調和した街並みを形成している。
1987年(昭和62年)には海野宿が種別「宿場町・養蚕町」で重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
海野氏発祥の碑

海野姓は現在、静岡市でよく見られる姓ですが、その名の通り、海野宿は海野氏発祥の地とも言われている所です。
宿場町開設以前は、海野郷や海野庄などと呼ばれ、東信濃の豪族・滋野氏や海野氏の領地として栄え、宿場町開設以前から集落が形成されていた。
海野宿と海野氏についてはコチラが詳しいです。
海野氏は平安時代から同族の根津氏、望月氏と並んで「滋野三家」と呼ばれ、三家の中でも滋野氏嫡流を名乗り、東信濃の有力豪族として栄えた。資料の初見は『保元物語』で、源義朝揮下の武士にその名が見える。
白鳥神社

木曽義仲は海野宿の東端・白鳥神社で挙兵しており、海野氏を中心として東信濃の豪族が集結したという。平家物語には源義仲の侍大将として海野幸親・海野幸広親子の名が出てくるが、共に戦死を遂げている。
義仲の嫡男・源義高の身代わりとなった忠勤を源頼朝に賞賛され、側近に取り立てられた幸親の三男・海野幸氏が家督を継いで、海野氏は滅亡を免れる。幸氏は武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されたと伝えられるほどの弓の名手であった。
白鳥神社の御神木

長野は静岡とは寒さが違うからか、色鮮やかな紅葉で、道路を走っていても感動する事しきり。


リンゴは木一本単位のオーナー制となっており、その木に成った実は全て収穫というシステム。

狩りに行った友人と収穫。

リンゴは実を捻るだけで簡単にもぐ事が出来ます。
リンゴ自体は今年は裏年であり台風の影響もあり収穫量としては残念な収量でした。

最低収穫量として、30キロが保障されているのですが、一本ではそれに満たず。
前は木一本で200キロを超えたのですが・・・。
軽々と詰めてしまいました。

少しリンゴ農家さんの家に上げて頂き、色々とお話しさせて頂いた。
やっぱり長野の人は漬物つけるのが上手いな。
それに前は村のイベントなんかも含めてだったので、林檎狩りも賑わっていたのですが、この日は雨が降りそうな曇りであるのと、自分たちだけというのが何か寂しげでした。
リンゴ狩り農園を出た後は、海野宿へ。
海野宿へは友人に海野姓の人が居る事から、前々から行きたかったのと、昨年の夏に小諸宿を訪ねて北国街道の宿場が気になる所がありました。
海野宿は1625年に北国街道の宿場として、江戸幕府によって設置された。
海野宿には、約 650mにわたり街並みが続き、本陣1軒と脇本陣2軒が設けられ、善光寺までの参拝客や、北陸諸大名の参勤交代などで利用され、非常に賑わいをみせていた。現在でも本陣、脇本陣、問屋、旅籠などの跡が残っている。海野格子と呼ばれる二階の出格子が良く残されている。

明治には蚕の病気が発生しにくい気候を活かし養蚕業で栄え、養蚕に用いられた建物や、その富により建築された壮大な建物は江戸期の建物と調和した街並みを形成している。
1987年(昭和62年)には海野宿が種別「宿場町・養蚕町」で重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
海野氏発祥の碑

海野姓は現在、静岡市でよく見られる姓ですが、その名の通り、海野宿は海野氏発祥の地とも言われている所です。
宿場町開設以前は、海野郷や海野庄などと呼ばれ、東信濃の豪族・滋野氏や海野氏の領地として栄え、宿場町開設以前から集落が形成されていた。
海野宿と海野氏についてはコチラが詳しいです。
海野氏は平安時代から同族の根津氏、望月氏と並んで「滋野三家」と呼ばれ、三家の中でも滋野氏嫡流を名乗り、東信濃の有力豪族として栄えた。資料の初見は『保元物語』で、源義朝揮下の武士にその名が見える。
白鳥神社

木曽義仲は海野宿の東端・白鳥神社で挙兵しており、海野氏を中心として東信濃の豪族が集結したという。平家物語には源義仲の侍大将として海野幸親・海野幸広親子の名が出てくるが、共に戦死を遂げている。
義仲の嫡男・源義高の身代わりとなった忠勤を源頼朝に賞賛され、側近に取り立てられた幸親の三男・海野幸氏が家督を継いで、海野氏は滅亡を免れる。幸氏は武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されたと伝えられるほどの弓の名手であった。
白鳥神社の御神木

続く…。
Posted by かるの at 08:06│Comments(0)
│店主