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2014年10月23日
北陸へ 2014 ⑧魚津米騒動の地へ
雨が幾分小振りになったので、博物館を出て魚津駅方面へと歩く。

この天気では蜃気楼は見えないだろうが。
博物館は元々港を作る際に埋没林が発見された経緯があるので、現在もすぐ近くに港が。

富山湾はホタルイカ漁が盛ん。イカ釣りには集魚灯を用いるが、この漁船にはLED集魚灯であろうか。
諏訪神社

古代、この地方は信州地方との交易が盛んで信濃の諏訪本宮に豊漁を願って初魚を奉納する習慣があった。大宝元年(701年)に魚津の信濃浜(大町海岸)に、建御名方神を分霊して祀りました。後に”越の大社”と改称され、諏訪の神垣の森として栄えた。
毎年8月の第1金曜日~日曜日に諏訪神社のたてもん祭りが行われ、毎年、祭りの当日は、非常に多くの人で賑わう。
大漁と海上の無事安全を祈るたてもん祭り では、高さ15mの大柱に90余りの提灯を帆型につるした「たてもん」を、若者たちが威勢よく引き回します。その豪快さ・勇壮さは、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
そう言えば、魚津駅前にはこの「たてもん」のモニュメントがあった。

参拝したら、社殿に神社の人が居たらしく突然、太鼓が鳴り出してビックリ
魚津は水に恵まれている所。駅前にもあったが、街角にはこのような井戸が所々ある。

水に恵まれているからか温泉も。

リューマチや冷え性にもよく効くとの評判らしい。


普通の理容店だが旧金沢貯蓄銀行の建物

金沢貯蓄銀行は明治26年に設立された。建物の内部装飾や電話室など、銀行時代の面影があるという。
魚津米騒動の碑

魚津という地名から連想されるのは社会科の授業で習う米騒動ではなかろうか。
大正七年七月二十三日、米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が米の積み出しをおこなっていた大町海岸の十二銀行の米倉前に集まり、米の積み出しを止めるよう要求し米の搬出は中止された。
この事件は「女一揆」と報道されると富山県内の沿岸部に波及し、更に全国500箇所、参加人数は70万~100万人に広がり当時の寺内内閣が総辞職に追いこまれるという大きな社会問題になった。
しかし、魚津では他地域のような暴動に発展することはなく、町や米商人などに対する請願行動が主であったという。
この碑がある所は公園になっているのだが、同じ敷地内の「横山源之助の碑」

横山源之助は魚津出身のジャーナリスト。独学で弁護士を目指して上京し、弁護士試験を数度にわたって受験するが合格できず、各地を放浪。この時期に二葉亭四迷や内田魯庵、幸田露伴らと知り合う。特に二葉亭四迷からは強い影響を受け、ルポライターを目指すきっかけとなる。
1894年、旧横浜毎日新聞に記者として入社。下層社会のルポルタージュを中心に活動し、小作人の生活事情を中心とした『日本之下層社会』、『内地雑居後之日本』を相次いで刊行し、「社会福祉の先覚」と記されている。
公園のすぐ裏が米騒動の現場である十二銀行の米倉。大正三年の建築。

魚津は江戸時代から越中東部の政治・経済の中心地として、明治時代の近代化とともに、北海道や樺太への米の積み出しで栄えた大町海岸には米倉庫が立ち並んでいた。
地元の米商人が買い付けた米を、この銀行の倉庫に預け、北海道向けの汽船に出荷していた。
米騒動に関する遺跡は全国的に少なく、当時の建物が現存するのは旧十二銀行米倉の他には無い。

米騒動は近年まで語られず、罪悪感の強い不名誉な事件として受止められていた。魚津や滑川出身と言うだけで差別を受けたという事もあって地元でも近年まで語られず、今日に至っていた。
魚津市は7月23日を”魚津米騒動の日”とし後世に伝えるべく、旧十二銀行米倉を同日、一般公開している。

倉庫に隣接しているのが旧十二銀行事務所。明治44年の建築。

現在、旧十二銀行の事務所と土蔵、米倉庫は、魚津水産株式会社の事務所や漁具倉庫として利用されており、当時の姿で残されている。
続く…。
Posted by かるの at 08:17│Comments(0)
│店主