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2015年03月12日
ホントに歩く東海道 小田原~湯本編 ⑥
東海道は見付から小田原市板橋地区に入る。板橋地区はかつて政財界の別荘が多くあった。
明治34年、小田原城内に御用邸が完成し、皇室関係者も小田原に居住するようになった。海岸地域を中心に、伊藤博文による「滄浪閣」をはじめ、政財界人の別荘群が形成されていた。
しかし、明治35年の小田原大海嘯により、海岸沿いの別荘が大打撃を受けた。
その後、三井財閥を支えた益田孝が、当時の小田原町に隣接する内陸の大窪村板橋に別荘「掃雲台」を営むと、益田に縁のある大倉喜八郎といった実業家達が、この板橋に別荘を構えるようになっていった。

古稀庵

明治40年に建てられた山縣有朋の別荘。山縣は掃雲台の隣地に別荘を構えた。
この年、山縣は数え年70歳の古稀を迎えたことから、この別荘は「古稀庵」と命名された。以来、大正11年にこの地で生涯を閉じるまで、山縣はずっとこの古稀庵に在住した。
山縣が古稀庵に住み始めた頃、既に政界からは引退していたが、その政界に及ぼす影響力は依然残っており、内閣更迭改造から閣僚・高官人事に至るまで口出ししたことから、為政者たちは山縣を「小田原の大御所」と呼び、多くの政界関係者が山縣の機嫌伺いに古稀庵を訪れた。
現在はあいおいニッセイ同和損害保険の小田原研修所となっている。
松永記念館

松永安左エ門が晩年を過ごした居宅「老欅荘」。
昭和34年に蒐集した古美術コレクションを、広く公開する目的で建てられた施設が、現在の松永記念館。
また、晩年を板橋に暮らした作家・中河与一のコレクションや、近代小田原三茶人と呼ばれる益田孝(鈍翁)、野崎廣太(幻庵)、松永安左エ門(耳庵)の遺品を蒐集・展示している。
庭園は西洋シャクナゲの大木、池に浮かぶスイレン、菖蒲、藤、椿、梅など四季折々の花々と、随所に奈良・平安時代の石造物が点在し、「日本の歴史公園100選」に選ばれた。
香林寺

文明16年(1487)に創建、北条氏綱の妻が当寺に葬られた際に堂宇の寄進を受けたことから養珠院が開基となった。
海蔵寺・久野総世寺と共に曹洞宗の小田原三寺と称され、近隣に数多くの末寺を擁していた。
板橋のチェックポイント、下田豆腐店は1900年の創業という老舗。ここでがんもの試食を頂く。
板橋ではやや道を逸れたが、再び東海道に戻って西進。
風祭地区の踏切

水車踏切とあり、水車があったのだろうか。
風祭と言えば「かまぼこ博物館」

色々と土産物を物色
再び道へ。
道祖神

小田原市内における道祖神の分布は、全国的に見ても緻密分布地帯といわれ、その形態は、信州系と伊豆系に大別され、例外として稲荷との習合が見られるという。
ちなみに、一里塚でもある。
紹太寺

小田原城主・稲葉正則の開基、黄檗宗の僧・鉄牛道機の開山により小田原宿に創建された寺で、1669年(寛文9年)現在地に移された。

黄檗宗という事で、普茶料理が味わえる。
かつては大伽藍を誇ったが、幕末の安政年間(1854年 - 1860年)に焼失した。しかしその名残か、入り口に至る道が広いのがかつての大寺院であった事を伺わせる。
本堂から参道を15分登った相模灘を望む台地に、稲葉氏らの眠る7つの墓と稲葉正則の母であり、徳川家光の乳母となった春日局が眠る墓が並ぶという事で行ってみる。

しかし時間が押している事もあって撤退。ただ、現在は山崩れの関係で倒木などがあり荒れている状態だという。
開山した鉄牛道機の父母の供養塔

共同墓苑だそうだ・・・


続く…
Posted by かるの at 08:03│Comments(0)
│店主