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2015年09月19日
最前線・御台場散策 ④台場公園
お台場海浜公園から台場公園に向かって歩きます。
典型的な「お台場」の風景

お台場築造150周年記念植樹とある。

築造を指揮した江川太郎左衛門の縁という事で韮山でしょうか。
台場公園に近付きます。

石垣に返しが付いており、登りづらいようになっている。

公園内

嘉永6年(1853年)、アメリカ艦隊来航にあたって、江戸の直接防衛のために海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川英龍に命じて、洋式の海上砲台を建設させた。
工事は急ピッチで進められ、およそ8か月の工期で1854年にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成し、品川台場と呼ばれた。
ペリー艦隊二度目の来航時、艦隊は品川沖まで来たが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。
品川沖に11基の台場を一定の間隔で築造する計画であった。お台場という呼び方は、幕府に敬意を払って台場に「御」をつけ、御台場と称したことが由来である。

公園の内部は凹んでおり、台場も城郭構造を意識している事が分かる。

陣屋や弾薬庫の痕跡がよく残されているとして、無人島と化している第六台場とともに1926年(大正15年)10月20日に「品川台場」として国の史跡に指定された。

擬木のコンクリートで砲台を模しているが、これは昭和三年に公園として整備された際に設けられたものであると思われる。

本来は砲台は木製であったそうだ。
駐屯する兵の為のカマド跡

円形にする事により省スペースかつ、煙突を設けているので燃焼効率が良さそう。
各地のキャンプ場でも取り入れれば良いのに。
公園は窪地です。これは射撃を防ぐため。

完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)、忍藩(第三台場)の3藩が担った。と、いう事でこの台場公園は第三台場なので忍藩の藩士が駐屯していた。
この辺りに弾薬庫があったそうだ。

内側になる江戸側には船着き場が設けられ、物資のやり取りが出来るようになっていた。

この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくすることを狙ったものである。
台場の位置は、当時の列強諸国の使っていた大砲が射程距離7キロ前後であったので、江戸城を直接砲撃されないように、という防御線として築かれている。
では、公園を出てレインボーブリッジに向かう。
続く…
Posted by かるの at 08:17│Comments(0)
│店主