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かるの
各地で歴史講座を展開中。歴史を知る事で、人生や地域が豊かになる事を目指して。
フリーマガジン「道の駅」にも寄稿中。
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2016年09月12日

空を見上げて 浜松まつり ③

先回の続き…

浜松まつりの会場から、一旦駅前へ戻る。
空を見上げて 浜松まつり ③

浜松駅近くの空間には夜に練りが行なわれる山車が。
空を見上げて 浜松まつり ③

浜松まつりと一緒に見たかった、磐田市の「熊野(ゆや)長藤まつり」に行きたかったので、豊田町へ移動。

豊田町駅前
空を見上げて 浜松まつり ③

駅前にも熊野長藤まつりアピール
空を見上げて 浜松まつり ③

その隣には熊野御前の像
空を見上げて 浜松まつり ③
 熊野御前とは、平安時代末期に、天竜川を渡る宿駅である池田の宿の庄司、藤原重徳の娘として生まれ育った。
 教養豊かな美しい女性で、和歌の道にも通じ、親孝行であったことから人々に 「女性の手本」 と称えられていたと言う。見付の遠江国府に赴任していた平宗盛に見初められた熊野は都へと上った。
 宗盛の元にいた熊野の元に母の病の報せが届き、母の元に帰りたいという熊野の願いを宗盛は熊野を愛するが故に放しがたく、聞き入れなかった。
 春、桜見物の酒宴が始まり、熊野は涙をおさえながら舞を披露します。舞の途中、
にわかの村雨に散る桜の花に母の命を重ね合せ、花びらを扇ですくって硯にあけ、
 「いかにせん、都の春も惜しけれど、なれしあずまの花やちるらん」
(都も離れがたいが、故郷で命を散らそうとしている母が心配です)
と詠み、心打たれた宗盛は熊野を放す決心する。
 母娘は再会を喜んだが、母の命は長くなかった。そして、平家滅亡と宗盛の死を聞いた熊野は、尼となって33歳の若さで生涯を閉じた。
 この平宗盛と侍従の逸話を題材にして脚色されたのが謡曲『熊野』である。
 熊野が母の冥福を祈るために建立した庵の跡の行興寺の庭には、熊野が母のために植えた藤の花が、毎年長い花房をつけている。

 この行興寺へ向かう。この時期は駅から行興寺近くまでシャトルバスが出ている。
空を見上げて 浜松まつり ③
 行興寺に着いたが・・・

 藤の花は完全に終了であった・・・。
空を見上げて 浜松まつり ③

空を見上げて 浜松まつり ③
国指定天然記念物の老木があり、他に5本の県指定天然記念物の長藤があり、熊野公園および行興寺境内を合わせた藤棚面積約1,600平方メートルを誇る藤の名所である。

本堂の傍には熊野と母、侍女朝顔の五輪塔が祀られている。

 この熊野の話には後日譚がある。
 平家滅亡の後、平重衡が鎌倉に護送される途次、池田宿の熊野の娘侍従の元に一夜の宿をとる。
 侍従は重衡を見ると、一首の歌を詠み重衡に渡した。
「旅の空 埴生の小屋の いぶせさに ふるさといかに 恋しかるらん」

 これに対して重衡は、
「ふるさとも 恋しくもなし 旅の空 都もついの すみかならねば」
 と返した。
 重衡は彼女の歌に感心して、護送役の梶原景時に尋ねると、景時は、重衡の兄である宗盛が遠江守だった時に
見そめて都に召した熊野という女性であると答えた。

続く…。




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Posted by かるの at 08:13│Comments(0)店主
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