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2016年02月18日
大磯から平塚散歩 ①澤田美喜記念館
友人に誘われて、大磯から平塚の気になる場所を巡る散歩をしました。
まずは大磯駅前にある澤田美喜記念館に入ります。

実は以前に散歩かふぇ ちゃらぽこさんの東海道ウォークの企画で、今回と逆の平塚から大磯に歩いた際、大磯は終着点だったので、もう閉館時間となっていたので気になっていた。
澤田美喜女史のレリーフ

私はここを開設した澤田美喜女史が岩崎彌太郎の孫であるという点と、女史が蒐集した隠れキリシタンについての展示がある、という所で気になっていたが、友人は人類学の観点からこの施設で行われた日米混血児の体格を20年に亘って長期観察研究が気になっていたそうだ。
敷地に入った時間は開館時間よりやや早かったため、掃除をしていた職員の方が施設について色々とお話ししてくれた。

第二次世界大戦後、日本に進駐したアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍兵士と日本人女性の間に強姦や売春、あるいは自由恋愛の結果生まれたものの、見捨てられてしまった二十万人と言われた子供たちの存在を日本占領の恥部と考えた日米両政府とも、この問題には敢えて触れたがらなかった。
各地で見聞される捨て子や間引きの状況に心を痛めた澤田美喜女史は、三菱財閥が財産税として物納されていた岩崎家大磯別邸を、混血孤児のための施設として400万円で買い戻して昭和23年2月1日に設立した。
ホーム設立後に最初の寄付をしてくれた、三井家で働いていた英国人家庭教師エリザベス・サンダースにちなみ、「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付け、孤児の養育、教育、職業訓練などのために後半生を捧げた。
女史は「たとえ一瞬でも、汝がその子の母となれば、日本中にいる彼のごとき境遇の多数の子供たちのために、汝が母親代りになるべし」と述べている。そこには「信仰半分、意地半分」という精神である。
澤田美喜記念館

昭和63年4月19日に澤田美喜記念館として開設。1階が展示室と受付、2階に礼拝堂といった構成である。

沢田美喜は隠れキリシタンの遺物の収集家でもあった。生前に美喜が蒐集した世界各国の十字架や、日本全国から集められた貴重な資料851点のうち、370点あまりが同館に展示されている。

内部は撮影できないので写真は無いが、板彫り踏絵、背部にマリア像を彫ったマリア観音像、キリシタン禁止令の高札、鏡面に光を当てるとキリスト像が照らし出される「魔鏡」、日本最初のキリシタン大名・大村純忠の領地であった「横瀬浦天主堂の鐘」など、同様の博物館では群を抜くコレクションを保有している。
私も各地のキリシタンの歴史を伝える資料館はいくつか巡っているが、確かにコレクションは素晴らしい。ただ、あくまで個人のコレクションであって、歴史を伝えるような展示では無かったと個人的には思う。

アメリカでも、日米混血孤児たちの話を聞いて深い同情を示し、引き取って世話をしたいと申し出るものも多くあった。美喜は米国でも人種差別が強いことをよく知っていたが、それでも孤児たちには米国で育ったほうが日本で育つよりも、明るい未来が開かれていると信じていた。
更にブラジルへの開拓民として卒業生を送り込もうと計画し、「アマゾン教室」と名付けた実習室を設け、卒業生を現地の「聖ステパノ農場」に送った。ブラジルが世界で混血に対して最も寛容な国の一つであったと考えていたのだろう。
だが、ブラジル政府の黒人移民不歓迎政策があり成功とは言えなかったが、1968年に教え子の1人が移民で成功している。
個人的には移民史を講座にもしているが、戦後移民のある一面を知れた。
「ジョセフィーンの家」とある。

ジョセフィーンとは、アメリカ出身でパリで活躍したダンサーであるジョセフィン・ベーカー。ベーカーがパリで活動していた時にパリに赴任していた外交官の夫・廉三と共に沢田美喜と友人になった。
パリで成功した彼女であったが、アメリカでの黒人に対する差別は変らなかった。ニューヨークでの公演時に、ベーカーを泊めるホテルが悉く差別心から拒否した。その際、沢田美喜は自分の部屋に泊めたという。
この恩返しにと、エリザベス・サンダース・ホームのための募金コンサートを日本国内で企画し、1954年の春に来日した。ジョセフィンは、3週間の日本滞在期間に22回の公演を行い、集められたお金は全部ホームに寄付した。
ベーカーもまた、様々な人種の12人の孤児を養子とし、人種差別に立ち向かった女性だった。
聖ステパノ学園小学校・中学校の建物の一部


孤児院出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の「混血児」への偏見迫害や、学校生活との折り合いの問題などへの対応から、ホームの中に小学校・中学校も設立した。
小学校は、1953年に創立され、美喜の三男・晃の洗礼名から、聖ステパノ学園小学校と命名された。中学校は1959年に併設された。
なお、美喜の三男・晃は1945年1月12日、インドシナ沖で日本の巡洋艦「樫」と共に海底に沈んだ。19歳だった。
夫の澤田廉三氏は戦前から外交官として活動し、戦後は日本の国連加盟に尽力した。
ホームの子供たちは親に捨てられたという事と、肌の色が違うということで世間から二重の不当な差別を受けていた。そのため、ホームのある大磯の海岸で海水浴を楽しむことさえもできず、廉三の故郷である鳥取県岩美町の海岸でやっと受け入れて貰えた。ここはホームの第二の故郷であり、澤田夫妻の墓もここにある。
現在でも親の虐待、育児放棄、あまりの夫婦喧嘩による精神的外傷など様々な心の傷を負った子供たちが共同生活をしている。定員百人のところ、現在は八十人ほどいるとの事。
エリザベス・サンダース・ホームへと繋がるトンネル

このトンネルは元々岩崎家の別荘であった時から存在するが、子供たちが暮らしていた施設と隔絶していた世間とを繋ぐ一本の暗い通り道を示しているかに思えた。
ここで同行者の方が
「ここもそうだけど、アメリカ軍の日本占領下やベトナムでは現地の女性と兵士の子供の問題があるのだけど、慰安婦ではその面は無いのだけど。」
うーん、その視点は鋭いなぁと思って、足を進めた。
まずは大磯駅前にある澤田美喜記念館に入ります。

実は以前に散歩かふぇ ちゃらぽこさんの東海道ウォークの企画で、今回と逆の平塚から大磯に歩いた際、大磯は終着点だったので、もう閉館時間となっていたので気になっていた。
澤田美喜女史のレリーフ

私はここを開設した澤田美喜女史が岩崎彌太郎の孫であるという点と、女史が蒐集した隠れキリシタンについての展示がある、という所で気になっていたが、友人は人類学の観点からこの施設で行われた日米混血児の体格を20年に亘って長期観察研究が気になっていたそうだ。
敷地に入った時間は開館時間よりやや早かったため、掃除をしていた職員の方が施設について色々とお話ししてくれた。

第二次世界大戦後、日本に進駐したアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍兵士と日本人女性の間に強姦や売春、あるいは自由恋愛の結果生まれたものの、見捨てられてしまった二十万人と言われた子供たちの存在を日本占領の恥部と考えた日米両政府とも、この問題には敢えて触れたがらなかった。
各地で見聞される捨て子や間引きの状況に心を痛めた澤田美喜女史は、三菱財閥が財産税として物納されていた岩崎家大磯別邸を、混血孤児のための施設として400万円で買い戻して昭和23年2月1日に設立した。
ホーム設立後に最初の寄付をしてくれた、三井家で働いていた英国人家庭教師エリザベス・サンダースにちなみ、「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付け、孤児の養育、教育、職業訓練などのために後半生を捧げた。
女史は「たとえ一瞬でも、汝がその子の母となれば、日本中にいる彼のごとき境遇の多数の子供たちのために、汝が母親代りになるべし」と述べている。そこには「信仰半分、意地半分」という精神である。
澤田美喜記念館

昭和63年4月19日に澤田美喜記念館として開設。1階が展示室と受付、2階に礼拝堂といった構成である。

沢田美喜は隠れキリシタンの遺物の収集家でもあった。生前に美喜が蒐集した世界各国の十字架や、日本全国から集められた貴重な資料851点のうち、370点あまりが同館に展示されている。

内部は撮影できないので写真は無いが、板彫り踏絵、背部にマリア像を彫ったマリア観音像、キリシタン禁止令の高札、鏡面に光を当てるとキリスト像が照らし出される「魔鏡」、日本最初のキリシタン大名・大村純忠の領地であった「横瀬浦天主堂の鐘」など、同様の博物館では群を抜くコレクションを保有している。
私も各地のキリシタンの歴史を伝える資料館はいくつか巡っているが、確かにコレクションは素晴らしい。ただ、あくまで個人のコレクションであって、歴史を伝えるような展示では無かったと個人的には思う。

アメリカでも、日米混血孤児たちの話を聞いて深い同情を示し、引き取って世話をしたいと申し出るものも多くあった。美喜は米国でも人種差別が強いことをよく知っていたが、それでも孤児たちには米国で育ったほうが日本で育つよりも、明るい未来が開かれていると信じていた。
更にブラジルへの開拓民として卒業生を送り込もうと計画し、「アマゾン教室」と名付けた実習室を設け、卒業生を現地の「聖ステパノ農場」に送った。ブラジルが世界で混血に対して最も寛容な国の一つであったと考えていたのだろう。
だが、ブラジル政府の黒人移民不歓迎政策があり成功とは言えなかったが、1968年に教え子の1人が移民で成功している。
個人的には移民史を講座にもしているが、戦後移民のある一面を知れた。
「ジョセフィーンの家」とある。

ジョセフィーンとは、アメリカ出身でパリで活躍したダンサーであるジョセフィン・ベーカー。ベーカーがパリで活動していた時にパリに赴任していた外交官の夫・廉三と共に沢田美喜と友人になった。
パリで成功した彼女であったが、アメリカでの黒人に対する差別は変らなかった。ニューヨークでの公演時に、ベーカーを泊めるホテルが悉く差別心から拒否した。その際、沢田美喜は自分の部屋に泊めたという。
この恩返しにと、エリザベス・サンダース・ホームのための募金コンサートを日本国内で企画し、1954年の春に来日した。ジョセフィンは、3週間の日本滞在期間に22回の公演を行い、集められたお金は全部ホームに寄付した。
ベーカーもまた、様々な人種の12人の孤児を養子とし、人種差別に立ち向かった女性だった。
聖ステパノ学園小学校・中学校の建物の一部


孤児院出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の「混血児」への偏見迫害や、学校生活との折り合いの問題などへの対応から、ホームの中に小学校・中学校も設立した。
小学校は、1953年に創立され、美喜の三男・晃の洗礼名から、聖ステパノ学園小学校と命名された。中学校は1959年に併設された。
なお、美喜の三男・晃は1945年1月12日、インドシナ沖で日本の巡洋艦「樫」と共に海底に沈んだ。19歳だった。
夫の澤田廉三氏は戦前から外交官として活動し、戦後は日本の国連加盟に尽力した。
ホームの子供たちは親に捨てられたという事と、肌の色が違うということで世間から二重の不当な差別を受けていた。そのため、ホームのある大磯の海岸で海水浴を楽しむことさえもできず、廉三の故郷である鳥取県岩美町の海岸でやっと受け入れて貰えた。ここはホームの第二の故郷であり、澤田夫妻の墓もここにある。
現在でも親の虐待、育児放棄、あまりの夫婦喧嘩による精神的外傷など様々な心の傷を負った子供たちが共同生活をしている。定員百人のところ、現在は八十人ほどいるとの事。
エリザベス・サンダース・ホームへと繋がるトンネル

このトンネルは元々岩崎家の別荘であった時から存在するが、子供たちが暮らしていた施設と隔絶していた世間とを繋ぐ一本の暗い通り道を示しているかに思えた。
ここで同行者の方が
「ここもそうだけど、アメリカ軍の日本占領下やベトナムでは現地の女性と兵士の子供の問題があるのだけど、慰安婦ではその面は無いのだけど。」
うーん、その視点は鋭いなぁと思って、足を進めた。
続く…
Posted by かるの at 08:16│Comments(0)
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