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2016年09月17日
空を見上げて 浜松まつり ④
行興寺の西方歩いて5分ほどには、暴れ天竜と恐れられた天竜川の「池田の渡し」があった。
池田の渡し歴史風景館
千年前から続いていたとされる池田の渡船の歴史、徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる朱印状のレプリカなどが展示されているのだが、もう閉まっていた。残念。
池田の渡しは平安時代の西行法師の日記にも出ている。
池田宿の長者が抱えていた遊女と源義朝との間に生まれたのが源頼朝の弟・範頼と、ここでも関連する。
戦国時代になると渡船を生業とするものが現れ、各々渡船場が出来て権利を巡って争っていた。
徳川家康は、天正元年(1573)9月20日の武田氏との戦いに於いて、家康の危機を池田の里人が救った。そこで家康は「天竜池田渡船の朱印状」を出し「池田の渡方」に渡船の独占権を与えた。また天正3年(1575)には
「渡船利用者は、舟が思うように動かなくても船頭等を殴ったり危害をあたえてはいけない、死刑に処す」
という禁制も出された。この渡船独占権は明治になるまで続いた。
明治4年、新政府は渡船、架橋の許可を与える太政官布告を出した。
この動きに対し、西岸の浅野茂平氏、鈴木謙一郎氏は私費で架橋し橋銭でまかなうという計画書を浜松県令(知事)に出し許可された。
工事は空船を横に置き、板を並べ櫓で固定する舟橋、それに普通の板橋を組み合わせたもので、「昇龍社」が創設され、鈴木浦八、熊岡安平、村松七十郎、田中新十郎らの協力で明治16年(1883)「池田橋」が開業した。
いづれも有料橋であったが、「暴れ天竜」の猛威でたびたび橋が壊れるなど経営は苦しく、更に明治22年、東海道線静岡~浜松が開通して更に客足が落ちた。
それでも木橋の天竜橋、池田橋は、昭和8年6月30日の国道1号線・天竜川鉄橋が竣工するまで現役として利用され続けていた。
写真を撮り損ねたが、池田の渡し前の常夜燈がわずかに往時を偲ばせています。
昭和の名残か
小間物屋というのも聞かなくなった
この隅にあったタバコの自販機。
造りが丁寧で、タバコが大人の嗜好品だったのを偲ばせる。
洋品店
聳える火の見櫓
マンホールも長藤。
この池田の渡しを偲んで、池田渡船まつりが開催されている。
続く…。
Posted by かるの at 08:13│Comments(0)
│店主